一時的に栄えて消えてゆく葬儀社

 現状、葬儀社をやるのに行政庁による許認可は必要ありません。それゆえ、明日から誰でも葬儀社をやろうと思えば葬儀社を始めることができます。 特に都心部では、新しく葬儀社ができたり、消えていったり、出入りも激しくなっていて、葬儀社の数を正確に把握するのさえ困難です。

 余計なお世話ながら、さらには、他人事ではないので(否、他人事ではないからこそ)、私は、どういった会社が長続きしないのかということに大いに興味を覚えています。

 京セラの創業者である稲盛和夫氏であれば、仕事の結果=考え方×熱意×能力、という方程式に照らし合わせて、熱意と能力があっても、考え方が間違っていれば没落していくと喝破されるでありましょう。

 どういう考え方が間違っているのかの本質的なことは、稲盛氏の本を読んでもらうしかありませんが、他業界にない葬儀業界に特有とでもゆうべきこととして、私が思っているのは、生活者(消費者)をばかにしているところは、ダメだろうなということがあります。

 たとえば、ばかにする意識はホームページの表現でみると大体わかる感じがします。誤解を与える表現や、誇大表現、情報を手前勝手に解釈したりしています。生活者が葬儀については何もわからない素人だということを前提にして軽く見ているわけです。葬儀の情報は、たとえば自動車や住宅、家電のように楽しみを伴って自ら進んでどんどん情報を得てやろうと思うような類でないという葬儀業界特有な背景です。

 しかしながら、リンカーンの言葉に、「すべての人を一時的にだましておくことはできるし、一部の人をいつまでもだましておくこともできる。しかし、すべての人をいつまでもだまし続けることはできない」というのがあるそうです。うなずくばかりです。