映画「おくりびと」での「食べる」行為は生と死を能弁に語っています。

 人間「食べる」という生々しい行為と生と死という厳粛な現実は一見水と油のようですが、どこか表裏一体の感があるようです。
 食べることは対象となるもの、それは動物であれ、植物であれ、全ての命を奪うことになります。
 それが動物や魚であればよりリアルに表現されます。私達は今まで生きていたものが動かなくなることで死をはっきり認識し、それを口に入れ「尊い命をいただきます」ということになるのでしょうか。
 
 映画「おくりびと」でも、「食べる」シーンが随所に出てきます。それも重要な箇所で。「食べる」という行いだけで観ている人に時間の経過やより深い意味合いを感じさせています。
 いきなり飛び込みさせられた最初の仕事で、腐った肉体と対面させられへとへとになって帰ったその夜の食卓は、生きた鳥をひねりつぶした鳥なべで思わずもどしてしまうシーン。
 仕事に慣れてきたクリスマスの夜には、事務所でチキンを貪るように食べる納棺師の姿がありました。
 主人公が仕事をやめようと決心し伺った社長の部屋ではふぐの白子を美味しそうに食べている社長の姿がありました。
 何も聞かず、主人公に網であぶった白子を差し出し「死ぬ気になれなきゃ食うしかない」と言って「困ったことにな」とつぶやく社長がいました。
 主人公が納棺をした後、お礼にもらった新聞紙にくるまった干し柿を社長と一緒に車の中でぱくつくシーン。
 生まれ故郷に帰りたい一心(?)で死ぬのがわかっていながら川を上っていく鮭の姿。
 時としてユーモラスな、また滑稽な姿を見せながらも「食べる」シーンは能弁に語っているようです。