24時間対応とお酒

 ノンアルコールビールは、20年以上前から売られていたと思いますが、酒屋さんやスーパー、コンビニの棚を広く占拠できるほどの勢いはまったくありませんでした。ところが、ここ最近、いやでも目につくほど場を占領しているではありませんか。

 新手のアサヒゼロドライの販促の力への入れようは目を見張るものがあります。
 
 ビールメーカーも、多大なエネルギーを注いで、酒税が低くて済むような発泡酒を開発して売りだして、その苦労が実って売れ出すと、税率を上げられてしまう! 売れ行きが鈍ったり利益が少なくならざるを得なくなったのでたまりません。そしてまた、酒税が低くて済むような「第三のビール」を開発する・・・。
 この点、ノンアルコールビールは、酒税は関係ないので安心して開発できます。(ただ、税金は取りやすいところから取るで、へんてこりんな名目でビールテイスト飲料にも課税とならない保証はありませんが)

 それはさておき、昔のノンアルコールビールしか知らない人は、一回だけ味わって終わりという人も多いと思いますが、今のは、そうとうな研究がされているようで、かなりイケます。
 アサヒスーパードライを氷点下まで冷やして飲む「エクストラコールド」になぞらえて、前出のアサヒゼロドライを試したところ、うかつにも、飲んでる気分になってしまいました。

 というような、今のノンアルコールビールはうまくなってきたという話を先日も葬儀社の人と話したところです。
 その人は1年ほど前に独立したが、24時間いつ何があるかわからないので、普段はお酒を飲むことがなくなった、と語っていました。そのかわり、飲む時は朝までとことんいってしまうんだ、とも。
 葬儀屋さんとお酒の付き合い方は、なかなか難しいものがあります。

年金問題と他人のお金

 報道番組を見れば社会保障の話、中でも年金の話題に相当な時間が使われている気がします。昨夜のNHKの夜の番組でも野田総理が出演されて、このテーマがメインの感じでした。

 今の賦課方式から積立方式にせざるを得ないという流れに見えます。たしかに、ねずみ講のようなものと揶揄される賦課方式よりも、積立方式のほうが、まだましな感じがします。
 しかし、かりに、移行することができるとしても、なんと800兆円もお金が足りないというではありませんか! 社会保障の専門家と一人は、この800兆円を数百年にわたって穴埋めしていくのが最適解だと真顔で言ってました。

 こんな話に毎日何十分も付き合わされると気分もよくないので、報道番組や新聞も見出しぐらい見るようにするというのは有効な対処法だと気づき、徐々にそのようになっています。

 ところで、葬儀の事前相談の違和感もだんだんと薄らいできて、事前に葬儀社を決めるだけでなく、金額も決めて、お金も預けて生前契約までしてしまおうという人が中にはいます。それで安心をしたいということは、わからなくはないのですが、少なくともお金まで“一括”して預けるのは止めたほうがいいと助言します。
 そもそも、状況は変わります。契約時はまともな良い会社でも、時間がたって変わらず良い会社ありつづけているかはわかりませんし、会社がなくなる可能性があります。お金が適切に返ってくる保証もありません(互助会の場合は半分は保全されます)。

 他人にお金を預けるのはリスクがあるのは誰でもわかっていることです。それが、他人が国だったり公共機関だったり、会社だったりすると、大丈夫なような気になってしまうのはどうしたことでしょう。

 自分がお金を持っているとロクなことに使わず無くなってしまうので、他人に預けて管理しておいてもらう。そして、預けられた人はきちんと管理(運用)してくれるはずだ。こうした面ももちろんあります。

 と同時に、自分のお金はケチケチに使うが、会社のお金や税金で集めた金(他人の金)は自分の懐は痛まないので大盤振る舞いする傾向がある、というのもまた確からしいことです(この結果が、800兆円という途方もない額への到達でしょう)。
 よりましな積立方式ですら、この誘惑に勝てる保証はありません。

携帯への対応もそろそろ始めないと

 電車に座って対面を見るとたいがい何人かはスマートフォンをいじっています。歩きながら操作している人を見るのも全然珍しくなくなってきました。
 少し前までは、いじっている内容はゲームぐらいのものだったでしょうが、いまや完全に携帯PCなので、外目からは一概に“いい大人が何をやっているのか”とバカにできたものではありません。
 
 ここまで普及してきて、さらに今後も増え続けていくような感じなので、携帯への対応も無視できない状況です。1年ぐらい前から、携帯への対応も気にかけているのですが、何も手を付けていない状況です。

 携帯への対応は何をどうすればよいのだろうか? と思っていましたが、先日運よくITコンサルタントの人に話を聞く機会がありました。

 それによると、(技術に疎いゆえ、もしかすると間違っているかもしれませんが)2つのことを理解しました。
 一つは、スマートフォンやガラケー(日本独自の携帯)から、あさがおサイトにアクセスがあると、そのPCサイトを見せずに、すぐ飛ばして、スマートフォンやガラケー専用のページを見せる。
 もう一つは、スマートフォンやガラケーから、あさがおサイトにアクセスがあると、PCサイトと同じ内容だが、スマートフォンやガラケー専用のデザインのページを見せる。
 というようなことのようでした。

 PCを利用しないで、スマートフォンだけという人もいるでしょうから、ますます対策が大事になってきたと思いました。

地図での場所確認と親近感

 われわれは相談を受けますと、まず、お話を伺いながら内容を整理することが第一ですが、次に地図で場所(近い斎場等)を確認していきます。拡大・縮小、ドラッグで移動できるグーグルマップは本当に便利だと思います。
 ただ、私はこれまでの慣れで地図帳を見ることが多いですが、最近のお気に入りは、「街の達人コンパクト・でっか字便利情報地図」です。机上で調べるのでもよいし、街中を歩くときに携帯するのにも便利だからです。
 相談を受けて地図を眺めるとき、一度でも歩いた土地だと親近感が出てくる感じがします。

 さて、街中を歩く番組は数多くあると思いますが、欠かさず見るのが、NHKで放映している「ブラタモリ」です。過去と現在を重ねて街や土地を描くので重層的で内容が濃いです。録画した番組を見ないで消去してしまうのも多いのですが、1回見るだけではもったいないので、2回は見たいと思わせられます。荒川を取り上げた放送も2回見てしまいました。

 荒川は、開放感があって散歩するには気分がいいところなので時折歩くのですが、その歩いているところ、赤羽の岩淵水門より下流は、人工の川だというのは、恥ずかしながら初めて知りました。知って歩くと見え方もまた違ってきます。

 昔の名残が地名で残っているとか道路の曲がり具合、川もないのに橋の標識あるなど、「土地の記憶」をタモリさんが様々取り上げてくれると面白いだけでなく勉強になります。

 ところで、荒川のような大きな川だと、橋の間隔はキロ単位ですが、昨日歩いた善福寺川~神田川などは、100メートルおきぐらいに、橋がある感じでした。おそらく全部の橋に名前がついているので、だいたいどのあたりを歩いているのかは、この橋の名前と地図を見比べるのが一番すぐにわかりました。
 橋の名前も変わったものがあって、石神井川の道楽橋や神田川の長者橋など、ブラタモリで取り上げてくれたら、面白い話がきけそうだ、と思いながら帰ってきました。

先を見通すのは難しい

 「密葬が広く一般的に行われるようになったきっかけは、渥美清さんが密葬にしてからではないでしょうか」
 と、先日お会いした葬儀社さんの人が話していました。誰かの受け売りか、オリジナルな解釈かはわかりません。どれくらい本当らしいかもわかりません。
 ただ、そういう仮説で物事を見るのは、聞いていて実に気持ちが良いものです。
 
 そして、同時に、事業的には、取るに足らない仮説をほんの少し立て、その中のほんの少しだけ実行するという体たらくぶりを省み、そして同時に、最近のニュースを見るにつけ、仮説実行できる人や組織でないと、ますます厳しい社会になってくるのではないかと思えます。

 かつてに安定した社会があったかどうかはともかく、現代のようにグローバル化による不安定さは、自らの立ち位置とは関係なく、世界の様々な影響を受け、先行きを非常に見通しにくくさせています。(わずか数か月前、日本の円が80円を上回っていたとき、10人中9人のエコノミストは、徐々に円安になっていくだろうと言ってました!)

 この見通しにくさの中において、求められる人や組織は、どちらかと言えば、いまある決まりごとを踏まえ無難にやりすごすというよりも、よく言うPDCAを早く回せる人や組織であると思われます(仮説・計画 → 実行 →検証・評価 → 改善)。たとえ仮説が間違っていて時には失敗したとしても、何も実行しないところよりも、生き延びられる可能性は高いのではないでしょうか。

 個人にしても、仮に現在どんなに強い組織の中にいようとも、小さい失敗を繰り返して仮説実行するクセをつけておかないと、その後ろ盾がなくなったときに、本当は何もできなかったと嘆いてみても遅くなってしまいます。

通過儀礼としての葬儀

 先日、久方ぶりにお会いした都内の葬儀社さんと情報交換をしたときのことです。おおむね次のようなことをお話されていました。

――――― 最近、都心での葬儀事情は異常なものがあります。直葬が増え、2〜3年前は3〜4割が直葬と言われていました。しかし今年のこと、ある業者は7割が直葬と言っています。それにともなって、通常の葬儀は少なくなっています。
 直葬は「直葬専門業者」が台頭。相当数をこなしています。ただし、一人で一日数件の直葬を掛け持ちしていますので、施行が荒くなったり、一つの火葬場に集中させたりして、中には問題もあるところもあるという声を聴きます。なんだか業界の質も低下してゆくような懸念をもっています。
 直葬が流行る背景には「宗教離れ」「道徳心崩壊」というものがあるように思います。この前、千葉の僧侶から連絡があり、講演の依頼がありました。趣旨は、直葬の急増に仏教界も危機感を覚えたこと、そして、「直葬では問題があり、後悔している人の話し等を聞かせて下さい・・・僧侶を集めて聞かせます」ということでした。危機感はどんどん広がっています。 ――――――

 誰にとって危機なのか? いま通常の葬儀がメインのところは危機感を持たざるを得ないでしょう。お寺さんにとっても活動の場が狭まるので危機。当センターにとっても直葬の相談はあまりないので今のままでは危機。反面、直葬専門業者にとっては追い風です。個人にとって直葬(の増加)は危機か? (問い自体にあまり意味がない??)
 
 社会にとってはどうでしょう。
 人間社会の長い営みの中から生まれてきた、いわば歴史の知恵と言ってもよい通過儀礼という視点からしますと、危機と言えなくもありません。

見積もりをipadで見られるなんて

 カバンからおもむろにipadを取り出して、
「今度から、打ち合わせで見積もりを作るときに、これを使おうと思っています」
 とある葬儀社の人と先日雑談をしていた時のことです。

 祭壇は言うに及ばず、それぞれの商品ごとに様々なバリエーションがあります。一般的に、打ち合わせでは、それらバリエーションの中から一つ一つ選択していって見積もりを作っていくことになります。なので、葬儀社さんの担当者は、打ち合わせでは、膨大な紙の資料を持参していくことになります。

 これらの資料をデータ化して、ipad上で見られるようにして、なおかつ、それぞれの商品ごとに好きなものを選択でき、見積もりまで作成させてしまおうという試みです。

 これを見たとき正直、こんな細かいものをよく作ったものだと感心しました。
 紙で資料を整理しておくよりも電子データで一元化しておけば管理も正確で楽になると思います。

 今日、手書きメモ類を整理していて、このことを思い出したのですが、メモ類には応用できそうにない感じです。
 デジタル人間ならば、第二の脳をコンセプトにしたエバーノートにでもメモ類もどんどん放り込んで利用するところでしょう、というより最初から、そもそも手書きメモよりも電子メモのような形態にするのでしょうか。

 結局のところ、メモを書きなぐって、ある程度たまったら見返して、ほとんど捨てる、というサイクルになっているような気がします。

御社を選んだほうがいい理由は何ですか?

「御社の特徴を簡潔に言うとどのような感じになりますか?」
葬儀社さんとの初面談でする、大事な質問の一つです。

「そうですね、・・・・・」

簡単そうな質問ですが、明快に答えてくれるところは案外少ないです。あまりにピントがずれている答えだったり、沈黙が長いと耐えられないので、言い方を変えて質問をしてみます。

「多くの葬儀社さんがある中で、御社に仕事を依頼すると喪家にとってどんなメリットがあるのでしょうか?」とか、
「ほかの葬儀社さんよりも、御社を選んだほうがいい理由は何だと思いますか?」

この質問を通して探りたいのは、マーケティングでいうところのUSP(ユニーク・セリング・プロポジション)です。
これをある程度把握できないと、相談者からのさまざまな要望に、より適した葬儀社を紹介するのは難しくなります。葬儀社さんそれぞれを、当センターの中でのポジション付けをするだけでなく、市場の中でのポジションを整理しておくことは大事です。

といっても、葬儀という同じようなことをやっているので、そう簡単にはUSPなんか作れるわけないだろう、という声も葬儀社さんから聞こえてきそうです。
たしかに、その通りかもしれませんし、実際、自ら意識的にUSPに取り組んでいるところにも、あまりお目にかかれません。

別の言い方をすると、差別化ということでもあります。
皮肉家に言わせれば、全体から見れば、細部の差異にフォーカスして、差別化と騒いでいる、ということになるのでしょう。
「細部」だからどうでもいい、とやるのか、「細部」なところにもエネルギーを注ぐのかで、以後の発展には相当違いが出てくるのではないでしょうか。以前、松下幸之助翁の「神さんのデザイン」という話を聞いてそう思いました。
この話は、家電のデザインにとどまらず、「地域再生のグランドデザイン」ですとか、「復興のグランドデザイン」「国家戦略のグランドデザイン」のようなものにまで示唆に富むと思っています。以下に引用してみます。

――――― 昭和30年ごろ、テレビの新製品を出すに先立って、役員会が開かれた。テレビ事業部の担当者が、5、6台のテレビを持ち込み、検討が始まった。みな新しいデザインの新製品である。重役の一人が、1台のテレビを見るなり言った。
「なんや、このブタみたいなデザイン!」
担当者にも言い分がある。
「テレビというのはブラウン管がありますから、それに制約されて、あとはつまみと若干の飾りだけで、どうしても同じようなデザインになってしまいます」
聞いていた幸之助が、ふいにこんなことを言いだした。
「地球の人口は今何人や」
「……」
「25,6億人おるのとちがうか。それがみな、違った顔をしてるわな。これだけの同じような大きさのなかで、部品もみな同じやけど、顔はみんな違うで。神さんはうまいことデザインしはるな」
担当者は“神さんのデザイン”という言葉に、頭を殴られたようなショックと恥ずかしさを覚えた。そして、事業部に戻るやいなや改めて検討を開始したのである。―――――

社会を明るくする力

 今朝目覚めた時には運よく、まだ、なでしこジャパンの戦いの最中でした。後半の途中から見だして、PK戦での勝利までリアルタイムで観戦させてもらいました。やはりこうしたものはリアルタイムに限ります。
 
 そういえば、最近はニュース番組でさえ録画して興味がありそうなところだけ見るような始末で、よほどの大事件でもないとリアルタイムでテレビを見ることも少なくなってきました。(ビデオがなかったときは、テレビの時刻に合わせて日常のリズムができていたような記憶が・・・そんな時代も懐かしい)

 それにつけてもスポーツの(一部でしょうが)キラーコンテンツぶりが変わることはないでしょうし、現状、悲しいかな、社会を明るくする力のあるものは、それほど多く見当たらない感じです。

 なでしこジャパンの優勝をきっかけに、復興五輪に弾みがついていけばと思います。

マネジメント

 出版不況と言われる中、「もしドラ」(「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」)が250万部を超えるベストセラーとなり、テレビや映画化でドラッカー・ブームであったかのような感じもしないではないですが、ドラッカーが説いた内容はブームとか流行にまったく左右されないものだと思います。

「私の観察によれば、成果をあげる者は仕事からスタートしない。時間からスタートする。計画からもスタートしない。何に時間がとられているかを明らかにすることからスタートする。」
「ほかの人間をマネジメントできるなどということは証明されていない。しかし、自らをマネジメントすることは常に可能である」

 これらの文章に魅せられて以来、少しづつ著作を読むようになりました。(はたして、どこまで血と肉になっているかは ??? なところですが。)
 
 ついには、――自己管理による目標管理こそ、まさにマネジメントの「哲学」― と迫ってきます。

 さてさて、この自己管理の部分だけでも、葬儀社の人にとっては深刻な問題です。何せ365日24時間対応です。大きな会社ならば社員同士でローテーションを組んだりして、時間のリズムをつくることはある程度可能かもしれませんが、葬儀業界の大半を占める、中小ではそうはいきません。オーナーなら時間も自己管理もなんのその体力だけがとりえと割り切れるでしょうが、社員にもそれを求められるのか、難しいところです。

 ただ、何とかして、自己管理ができるような環境をうまく整えられないと、継続的に良い仕事を提供しづけるのは難しいかもしれません。

 それはさておき、自分流に勝手に自己管理の一環と位置づけているのが、土曜日に何時間か歩くことです。そのときの状況次第で、歩く場所は、街中であったり、山であったり、観光地であったり、さまざまです。
 ちなみに、先週の土曜日は出先から、ついでに皇居を周って帰ってきました。テレビではみていましたが、ランナーがものすごいです。行き交う9割方はランナーのような感じでした。休みの日にまで走っている自己管理の姿には頭が下がる思いですが、皇居を取り巻く風景全体との調和のなさに ??? 海外の観光客も奇異な目で眺めているのもおかまいなしです。

 そういえばドラッカー先生も、マネジメントの原理について、「一人ひとりの目標と全体の利益を調和させるため」のものと言っているではありませんか。