桜とお見送り

疲れからか、うつらうつらしていると、ぱっと目の前が明るくなり、何事かと慌てて周囲を見渡すと、火葬場に向かうバスは丁度桜のトンネルの真っ只中を進行中でした。

 母の危篤状態が続き、東京と実家を往復する慌しい日々を過ごし、季節の移ろいを感じる余裕も無く、その時初めて桜の季節になっていたことに気がつきました。
 あれから、7年経ちますが、その衝撃が何処か尾を引いて季節がめぐってくる度に思い出す、胸騒ぎのする特別な花になってしまった感もあります。
 
 立会いに伺うご葬儀でも桜の花は特別で、この季節になると葬儀社の担当者も他のお花とは別格に選ぶ方もいらっしゃるようです。

 昨年のご葬儀では故人様の生きかたに感動された担当者が、御霊灯の提灯の代わりに見事な枝ぶりの桜を社からのサービスとして式場両側に生けると、桜を囲んでご会葬の方々の輪が膨らんで、故人様への想いが寄せられ、皆様それぞれに印象深いお見送りとなられたご様子でした。

 先日立会ったご葬儀でも、担当者はご家族からご自宅前の公園でよくお花見をされたお話を伺い、お花畑に見立てた祭壇には満開の桜が添えられました。
 ご葬儀の間中故人様を見守っていた桜は、故人様がこよなく愛したお酒といっしょにご家族皆様の手により柩に納められました。

 今年の桜は予想に反して、一気に花開いた感があり、早くも春分のこの季節に、満開の桜の下でのお墓参りをされた方もいらっしゃいますが、ご葬儀では散り行くまでにどのようなドラマが待ち受けているのでしょうか。
 以前、桜吹雪の中のご出棺を目の当たりにして、万感胸に迫るものがありました。

生花祭壇

 先日、熱帯植物館に行ってきました。ヤシやシダなどの植物が所狭しと展示されていて、気分転換にはぴったりのスポットでした。

 残念ながら時期がずれていたのか、花をつけている植物はあまりなかったのですが、思ったとおり、南国ではいつでも咲いているという、プルメリアの花は咲いていました。

 プルメリアといえばハワイを連想する方も少なくないと思います。ハワイアングッズのモチーフにもよくつかわれていますし、レイにも使用されています。
 
 ハワイでは、プルメリアの花はお葬式の花ともされています。 お亡くなりになったその日のうちにお葬式をするという風習があったハワイでは、お棺に入れたり、故人を飾る花として、プルメリアの花を使ったそうです。
 プルメリアの花は、一年中、どこにでも咲いているので、急なお葬式でも大量の花を用意できたからだとされています。
 私も大好きな花なのですが、日本では急に大量の花を用意するのは難しいので、プルメリアの甘い香りに囲まれて送ってもらえるハワイの方をうらやましく思うのですが…。

 日本のお葬式では白い菊の花が代表的ですが、今では色とりどりの花を使った生花祭壇や装飾も多くなってきました。
 仏式のご葬儀においても、故人様の好きだった花、好きな色、また、遺されたご遺族が故人様に対して抱いているイメージを伝えて作ってもらう生花祭壇は、派手な色遣いの花が施されていても違和感はありません。

 生花祭壇をお考えの方は、是非、ご要望を伝えてください。生花ですので、お花の時期なども関係してくることですが、出来る限りのご要望は応えていただけます。

プル2.jpg

故人と桜

  「見事な枝ぶりの桜ね。もう咲いているの。どこからもってきたのかしら・・・」

 声のする方へ振り返ると中高年の女性の一団が目の前の桜に一瞬釘付けのご様子です。

  「桜の咲く頃までもう少し待ってほしかったわね・・・」ふと我に返ったようにお1人が呟きます。
 皆さん一斉に頷いていらっしゃいました。
 やがて桜を囲んで故人様との思い出にお話がはずむまでには、時間は掛かりませんでした。

 ご葬儀開式30分前の重苦しい空気が一新されたように和んでいます。
 桜には不思議な力があるようです。

 葬儀担当者の計らいで故人様のイメージに合わせて斎場入口に飾られた寒桜は、満開の時を迎えていました。

 桜の花びらを見ていると、先日、久しぶりに会った友人の口からいきなり「樹木葬」という言葉が飛び出してきて、びっくりしたことを思い出しました。

 お墓は不要と自然志向が高まり、遺骨を細かく砕いて海や山に撒く自然葬や樹木葬はマスコミ中心の話題で、一般的にはまだまだ馴染まない言葉だと思っていましたが、いつの間にかごく普通に人の口にのぼるまでになってきていたようです。

 友人は新潟の友達の訃報をその方のお兄様から知らされ、故人のたってのご希望で樹木葬にされるとのことに、はじめは驚きと戸惑いを隠しきれなかったようです。
 やがて新潟のお友達は大好きだった桜の木の下に埋葬されることになりました。

 友人はいきなりの知らせにまだ気持の整理がつかないが、満開の桜の下で友人とゆっくり語り合えそうだと気持は日に日に高まってきているとのことです。
「今年は新潟の桜見物に行ってきます」。友人の声はどことなく弾んでいました。

 開花宣言が待ち遠しい季節になってきました。

梅と桜の思い出作り

今年は例年よりもだいぶ遅れ、3月に入ってやっと梅の開花の声が聞かれるようになりました。
 春の訪れをいち早く感じさせてくれる梅の開花時期は、私にとっても昨年の宿題をやっと終えて遅まきながら新しい年を実感できる頃でもあります。

 先週、母の7回忌に合わせて、久しぶりに親族が集まるからにはあわよくば実家の梅祭りも堪能できるのではと密かな期待をして帰省したのですが、殆どがつぼみ状態でまだまだ春遠からじの感は否めませんでした。

 25年近く前、母が元気な頃植えた15本ばかりの梅の木も十分な手入れもしないのに元気に育ち、毎年有り余るほどの実をつけてくれる梅たちですが、一説には梅の実は25年をピークに30年が寿命とのこと。
 ということは、我が家の梅たちも例外ではなく、下り坂にさしかかっていると推測されます。
 母の供養の為にも少しでも長く実をつけてくれるよう、そろそろ身を入れた手入れを考えなくてはと反省しきりで戻って参りました。

 そんな折、湘南在住の友人から4月のスケジュールの打診がありました。
 昨年夏信州でお会いしたお母様のお友達から、最後の旅行になりそうなのでぜひお会いしたい旨の連絡があったとのこと。

 友人のお母様の幼友達である大先輩は御年95歳ですが、娘さんの車で信州の自然をあちこちスケッチされては、ちぎり絵作家として今でも意欲的に活動されていらっしゃいます。

 友人は桜の開花時期を見計らってお母様のお墓参りを兼ね、湘南から富士霊園への企画をあれこれと立てているようです。
 湘南にはお孫さん一家もお住まいになり、今回御一緒されるご様子です。
 4世代が御一緒される機会はめったにありません。
 写真班も兼ねて皆さん御一緒の写真を出来るだけ沢山撮りながら、日長1日を満開の桜の下で過ごすのを今から楽しみにわくわくしながら待っています。

 いつの日か、ご家族皆さんの写真が、旅立ちの日の思い出コーナーに並んだ時には、お越し頂いた方々も新たな思い出の1ページを作ってくれるのではと期待を込めているのですが・・・。

 写真を撮られるのが苦手な私の手もとには大人になってからの家族と一緒の写真が見当たりません。
 撮る機会は幾らでもあったのにとは後で思うことです。
 7回忌を迎えて、母と一緒の写真がないことに気が付き、せめてもと母の梅の木を沢山撮ってきました。

 これからは一つひとつ、思い出作りになるように心がけていくつもりです。

最期のお花はなににしましょう…

 垣根越しに咲き乱れているお花が一年で一番綺麗な季節になりました。
 先日も知人宅のお庭で丹精込めて作られた薔薇の香に包まれながら、お茶をいただき、至福のひとときを過ごしました。

 お花は人の心にいつしか安らぎを与えてくれているようです。
 人は誕生から最期まで何時でもお花と寄り添って来ています。
 最期の最後までご縁が切れません。

 ご葬儀の立会いに伺った折にも、柩いっぱいの花びらに囲まれるとお顔は一段と明るく見え、今にもパッチリ目を開かれるのではと、ドキッとさせられることもしばしばでした。
 最近ではご葬儀で故人様のお好みのお花を指定される方も増えてきました。
 色を指定される方、お花の種類を指定される方それぞれですが、仏式だから薔薇はダメとかの基準も、最近ではお好みのお花が優先されるようになってきたようです。

 母の日近くには真っ赤なカーネーションを出来るだけ沢山、また大好きな胡蝶蘭を、忘れな草を、カスミソウをアレンジしてとご指定が入ります。

 中でも無宗教葬の方のご葬儀は印象的でした。
 祭壇を作らず柩を白薔薇で飾り、献花もお花入れも全て白薔薇で統一し、最後に奥様だけが真紅の薔薇一輪を手向けました。
 その鮮やかさが今でも目に浮かびます。

 また、石楠花寺として異名のあるお寺の会館では朝採りの石楠花を惜しげもなく、柩に手向けているとのこと。
 チベットのブータンから持ってきた石楠花は仏の花として思いがけないプレゼントにご遺族も大喜びだそうです。

 今度、エンディングノートに書き留めておこう。
 最期のお花は何にしようかと。
 しかし、花好きにとって、まだまだあれこれと目移りしています。

満開の桜の思い出は・・・。

 雨にも強風にも負けず今年の関東地方の桜はまだ咲き誇っています。
 日本人の花にまつわる思い出の中でも群を抜いて、桜に勝るものは見当たらないのでは・・・とまで思わせます。
 
 花冷えに震えながらお花見の席取りに駆り出され、朝から冷たいシートに陣取っていた新入社員時代の姿も、時を経れば懐かしい思い出です。

 私も2月に亡くなった友人と都内各所の桜を見て回った思い出がよみがえります。高齢の友人の足腰が丈夫な内にと、毎年千鳥が淵から靖国神社、上野公園、新宿御苑、代々木公園、善福寺川公園、井の頭公園・・・数え上げたらきりがないほどまわりました。
 同じ満開の桜でも場所によって見事なまでに表情が変わり、その場その場にふさわしい立ち振る舞いを見せて楽しませてくれました。

 故人との思い出では4年ほど前の母の葬儀も桜の花とダブります。
 葬儀・告別式も無事終わり、火葬場入口へと向ったバスの中が一瞬にしてホワッと何かに染まったように明るくなりました。
 何事かと窓の外に目をやると、そこは満開の桜のトンネルでした。
 その時初めて今が桜の季節だと気が付き、急に胸が一杯になったことが思い出されます。

 梶井基次郎の短編小説「桜の樹の下には」でも書かれています。「桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか」

香典の代わりにお花だけでもいいですか・・・?

 冠婚葬祭マナーに関することは本やインターネットでの紹介等でも沢山出回っていますが、皆さんご自分の場合に照らし合わせると、微妙に食い違いが出てくるようで、そこが一番問題になるようです。
 実際にご葬儀の場に立ち会うと、そこは人間社会のしがらみやらお付き合いで、マナー本の様には行かない場面にいろいろと出くわします。

 先日も深夜「インターネットで調べたら香典と供花はどちらか一つでいいとなっていますがよろしいですか」とのお電話を頂きました。
 伺えば、明日の叔父さんのご葬儀にお香典の代わりとして、供花をご夫婦連名で出したいご様子です。
 確かに、香典は故人のご冥福をお祈りして香をささげる代わりにお包みするもので、供花も同じように故人を偲び、供養するためにささげるお花ですので、二重にお供えする形になり、どちらか一方をお供えすればよいのではということになります。
 
 でも、とあえて言いますと、お身内の間ではお付き合いの度合いもありますが、お香典とお花は双方ともお願いしたいと思います。
 どうしても片方とおっしゃればお花よりもお香典が先に来るのでは・・・。
 と申しますのも、ご自身の希望より、まずはご喪家の立場に立ってお考えいただくのがよろしいのではないでしょうか。
 ご親戚以外でしたら、マナー本のようにどちらかでも構わないと思いますが・・・。
 勿論、供花はご夫婦連名で構いません。

桜とお葬式

 今年も3月18日、東京の桜開花予想が発表されました。
 このところ、初夏を思わせるような陽気に桜も少々焦り気味で一気に蕾をつけたのでしょうか。
 それでも来週は寒の戻りがあり、開花はゆっくりとのことなので、あちこちお花見のはしごもできそうです。
 開花予想までして待ち焦がれる花は他には見当たりません。
 それだけに各人それぞれの思いが淡い桜色の中にしみ込んでいるようにも思われます。
 
 私事で恐縮ですが、昨年3回忌を済ませた母の葬儀の日のことです。
 雲ひとつ無い穏やかな春の日差しの中、葬儀・告別式が無事滞りなく終りました。
 火葬場へと向うバスの車中がいきなりフワッとした空気に包まれたのは、それからまもなくでした。
 何事かとあわてて窓の外を見ると、辺りは淡いピンク色一色です。
 一瞬、事態が飲み込めませんでした。
 どなたかの「あっ、桜だ」の声で我に返り、急に身体中が温かく感じられ、胸がいっぱいになったのが、昨日のように思い出されます。
 火葬場入口から玄関先までの満開の桜並木は、母の門出を迎えていただける希望のトンネルのようにも思われ、心の片隅でほっと安堵いたしました。
 
 桜の季節は巡ってきますが、あの日に観た桜は母の思い出と重なり、今でも特別な桜のように感じられます。
 

「供花はどうしても必要なものですか?」

 「供花はどうしてもあげなくてはいけないものなのですか」
 葬儀社から取り寄せた概算見積書をお送りした後、依頼者の方との電話口でのやりとりです。
「あくまで故人様に対するお気持ちですので、強制ではありません」唐突な質問に言葉を詰まらせ、そんなお答えをした覚えがあります。
 仕事で半ば慣例化されたようになってしまった事柄も、一つ一つ問い詰めていくと、現在では必要のないものも出てくるかもしれません。
それぞれのご家庭により、またその方によりご葬儀の基準も多種多様になって来つつあります。
 でも、お気持ちだけはできるだけ残したいものです。合理的にどんどん削っていけば、お花なんて必要ないかもしれません。
 葬儀社の担当者に伺うと、「ある本にこんな一文がありましたよ」と知らせてくれました。

 「慈愛、忍辱(にんにく)の徳を表わし花を捧げることにより、清らかなやさしい気持ちで仏様を拝み、自身が慈悲の心を持ち続けたいと願うもの・・・」
 
 仏教の修行で個人だけでなく、他人をも悟らせる教えの六波羅蜜に「忍辱行」というのがあり、「忍辱」とは耐え忍びこらえる事だが、耐えることでポジティブに自分を育てることになるとのことです。
 お花を捧げることで自身もその心を持ち続けたいということであれば、どんな形であれ、あげる、あげないの問題ではないように思われますが・・・。

花の命は短くて・・・、ご葬儀とお花の関係は如何に・・・。

 最近のご葬儀はお花を抜きに成り立たないのではと言っても過言ではないほど花に囲まれています。
 その顕著な例として、今や祭壇と言えば花祭壇が従来の白木祭壇に取って代わり主流になりつつあります。
 特に価格を抑えた家族葬用の花祭壇が目に付くようになり、それで一気に拍車が掛かった感があります。
 また、花祭壇ですと頂いた供花をアレンジして祭壇に組み込み、より豪華に見せることもでき、葬儀社によっては逆に組み込むことで祭壇費用を抑える工夫を提案するところもでて来るなど色々と応用が利くのも一因があるようです。
 
 供物としてのお花は供花として祭壇両脇に、喪主を筆頭に子供一同、孫一同と並びます。供花はあくまでお気持ちですので強制ではありません。しかし、ご家族のお花はいつの間にか1対ずつが定着してしまったようです。
 なぜ1対ずつなのか理由は定かではないようで、この道何十年のベテラン担当者に聞いても1対でなければという確証は得られませんでした。
 確かに1対ずつの座りはよく、絶妙に祭壇を引き立てています。
 葬儀社で一括できる供花は祭壇とのバランスで花の種類や色合いを決め、祭壇との一体感を匂わせることができます。
  
 その満開に咲き誇った色とりどりのお花も告別式が終るや、後飾りと菩提寺用のお花を残して一気にむしり取られ、柩に手向けられます。
 巷のうわさではよく供花のお花だけを使用して、祭壇のお花は他のご葬儀に使いまわししているようなことを耳にしますが、立会いで見た限り、今まで1件も見当たりませんでした。
 お花が摘み取られた祭壇は見事に葉っぱのみの無残な姿だけが残っています。
 代わりに柩の中は溢れんばかりのお花畑です。
 
 柩の中のお花は何を表すのだろうか。
「あちらの世に行って花園に包まれた生活を送って欲しいという願いを込め、幻想を描いて柩いっぱいにお花を手向けるのでは」
ベテラン担当者の声を聞き、思わず手を合わせていました。