伝説的コピーライターが書いた名著

 ここ2週間ほど時間のある時に、「ザ・コピーライティング」(ジョン・ケープルズ著、ダイヤモンド社、3200円)という本を読んでいました。
 書名からして広告関係の人が多く読まれるのでしょうが、広告関係の人だけに読ませておくのはもったいないような本です。

 インターネットが普及し、誰でもほとんど無料で情報発信できる環境にある現在、不特定多数の人に向けて言葉を発する機会のある人には、参考になる事例が山のように詰まっている本です。言葉の持つ力を改めて知ることができます。

 現在オグルヴィ&メイザーとして知られる国際的大手広告会社をつくった、デイヴィッド・オグルヴィをして、「この本は間違いなく、いままでで一番役に立つ広告の本である」と言わしめました。

 ケープルズは、「私がピアノの前に座るとみんなが笑いました。でも弾き始めると――!」の名コピーを考え出した人です。今から80年ほど前、音楽学校の通信講座のコピーとしてです。

 ただ、名コピーを生み出す能力もさることながら、ケープルズの本当のすごさは、オグルヴィの次の言葉がよく表しています。
 オグルヴィは、「成功(最大限の費用対効果)へのカギは、広告のあらゆる要素を絶えずテストすることにある。」を、ケープルズから学んだこととして一番先に挙げています。

 要するに、例えばどのコピーがいいのかは実際にマーケットにきいてみて、その結果だけを重んじるという一貫した姿勢です。テストを繰り返して効果を検証するという手法です。(もちろんマーケットにきくべき材料は用意しないといけませんが)

 どの業界でもそうでしょうが、競争の激しさや不況のせいなどと言い訳をしてみたところで、事業が継続・成長できないのは、マーケットに支持されないという厳然とした事実と重なって思えました。

お布施代について考える・・・。

 先日依頼者から「斎場として以前親戚のものが葬儀をしたお寺ではどうか」との相談を受け、先方に問い合わせてみたところ、檀家になっていただいて院号の戒名の方のみ本堂でご葬儀を執り行いますとのお話でした。
 ついでに恐る恐る戒名のお値段をお伺いすると「こちらでは200万円以上」とのことでした。

 以前、都下の寺院で檀家の方が本堂でご葬儀をされた時もこれ以上の金額だったことを葬儀社の担当者から伺ったことがありました。
 同行した担当者は中座させられ、ご喪家の依頼者とご住職とが直にお話をされたようです。
 檀家で院号を付けると200万~300万円が相場となる・・・?。
 これに葬儀費用が加わる

お別れするだけで何もしない1時間は貴重なひとときです

 無宗教葬は時間が余ってしまうとか、手持ち無沙汰になってしまうことが多いとよくいわれますが、本当にそうでしょうか。
 少なくとも最後のお別れです。なによりも気持ちが大切です。義理で参列したり、直接の接点もない方の葬儀に伺ったりしなければ、故人との思い出に浸る時間も必要です。
 
 先日伺った無宗教葬では、会葬者が自由に時間を過ごしながらも、めいめいが故人ときっちり向かい合ってお別れしているような空気が強く感じられました。
 葬儀社の担当者が喪主と打ち合わせに入るとまず第1に言われたことは「何もしないでほしい。」とのことでした。
 無宗教ですから、献花する時間だけとってもらえればそれだけでよいと。
 
 オペラのアリアが流れる中、お集まりいただいた方は三々五々おしゃべりに興じているようにも感じられました。喪主が時々話の輪に入ってリラックスした雰囲気のままに30分が経過しました。30分後、お1人ずつの献花が終わり、最後のお別れの儀ではゆっくりと故人に話しかけながらのご対面となりました。
 なにもしないでひたすら故人との対話の時間を作ってあげるだけ。こんなひとときがあってもよいのではと思わされました。
 
 葬儀といえば1時間の中身の殆どを儀式で占められ、出席された方もひたすらそれに従っているように見受けられるのに慣れてしまった目には新鮮です。
 大好きな胡蝶蘭に囲まれた写真の主は1時間皆さんとのおしゃべりを堪能され、満足そうな表情で出棺されました。 

西伊豆「黄金崎」

あさがお葬儀社紹介センターのブログをご閲覧いただきまして、ありがとうございます。

先日、西伊豆に住む友人からお誘いをいただき、周遊してきました。
この日は天候に恵まれまして、日中は半袖でも過ごせ、普段デスクワークばかりの自分にはとても良い気分転換になりました。

いろいろと観光名所といわれる場所を紹介してくれて、その中でも
「黄金崎」の景色には圧倒されました。
火山流が海になだれ込んでできたものらしく、陽射しがあたると岩肌が黄褐色に輝きます。舗装された林道もあり、散歩しながら写真を数枚撮りました。

伊豆の観光というと東伊豆を浮かべますが、西伊豆もいろいろとあるのだなと。
仕事は大事だけど、たまには生き抜きも大切だよと、誘ってくれた友人に感謝した一日でした。

赤い霊柩車やお花いっぱいの霊柩車、いろいろあっていいのでは・・・。

 昨今では宮型霊柩車乗り入れ禁止の火葬場が増えています。
 いろいろな理由がある中で、一目瞭然ご葬儀の車と分ってしまうことに拒否反応を示す方が多いようです。
 「そう言えば都会では最近見かけないなー」としばし、考え込んでしまいました。
 
 そんな折、ある搬送会社の社長さんにお目にかかり、ユニークなお話を伺いました。
 今の仕事の前は改造車を創っていらしたとのことです。
 依頼者のご要望に合わせて霊柩車を改造するのが得意とのこと。
 中でもユニークなのは赤い霊柩車。だれがそんな車に乗るのかって・・・。
 天寿を全うされた方のご遺族から、お祝いの気持ちを込めたもので送りたいとの話から、ヒントにされたようです。
 
 逆に、小さなお子さんを亡くされたお母様が柩に寄り添って行かれたのを見て、少しでも心残りがないように、白いかわいらしい霊柩車を創られたとのことです。
 霊柩車の中はお花で埋め尽くされたり、またあるときはディズニーの縫いぐるみ人形
が占領したりと、お子様の最後の夢をくんであげようとその一生懸命さが伝わってくるようです。
 
 柩が霊柩車に収まり、皆様全員が注目の中、ドアが静かに下ろされました。
 そこには鮮やかな文字で奥様へのお礼の言葉が記されていました。
 生前、奥様に面と向って感謝の言葉一つ言ってあげられなかったご主人からの最初で最後のメッセージです。

 お話を伺った後、早速社長さんは霊柩車の運転手さんに早変わりです。
 運転をしながら、ご遺族の悩み、ご希望を聞き、それが次のアイディアになるとのことです。
 なにごとも「できる」と「断らない」がモットーだそうです。

インド・ガンジス川の写真集を見て、ふと最近のご葬儀を考える・・・。

 儀式としての葬儀、告別式が予定通り無事滞りなく終了しました。
 柩に祭壇のお花を手向け、親族の方々の手を添えて蓋を静かにそっと閉じると柩の小窓が開けられます。
 喪主、ご家族の方々の最後のお別れです。
 凝視した視線のかすかな動きを見て取り、担当者は「よろしいですか」と声を掛けます。
 喪主のうなずきを合図に小窓が閉じられ、お別れとなります。
 時間にしてほんの数秒間が永遠の空白の様に感じられ、時は息詰まる瞬間を刻みます。
 
 今、1冊の写真集を手元に眺めながら書いています。
 「バラモンとジャンタ」1971年に出した友人の写真集です。タイトルからも推測されるように60年代後半肌で感じたインドを撮り捲った作品の数々です。
 ガンジス川で顔と手だけ出して合掌している姿、朝の光の中で沐浴する若者達、洗濯をしている少女達、炎に包まれた死体、その隣で死んだ赤ちゃんが重しを付けられ今まさに川に放り投げこまれようとする瞬間のショット、全てが混然一体となって一つの世界を創っているようです。これらはガンジス川の朝の一こまです。
 友人は戸惑いながらも何か大きな力を感じ「何処でどのような葬式をしようが、死者を神のもとへ返す。これが貴重な行為ではないか」と記しています。

 最近のご葬儀は家庭から式場に移ることで、より儀式的になり、デリケートになり、時間に管理されてきて、存在感が希薄になってきたように思われます。
 あらゆるものを包み込むインドの写真集を見るたびに、もっと根源的なおおらかさが生かされる葬儀もあってもいいのではと考えさせられます。

神式での葬儀

 最近、神式のご葬儀の事前相談で祭壇には大好きなお花を飾って欲しいというご要望がありました。
 ご希望の斎場には常設の仏式、神式、キリスト教式等の祭壇がご用意され、こちらを使うことが義務付けられています。
 シンプルな神式祭壇では花を飾ることに抵抗があるように見受けられましたが、最近では宗派によっては、あまりうるさく言われないようになってきたとのことです。
 柩周りや遺影の額周りを中心に祭壇はそのまま活かしてお花が飾られることになりました。

 神式の葬儀は神葬祭と呼ばれ、以前より大分簡略化されてきました。
通夜・通夜ぶるまいに当たる通夜祭、直会(なおらい)に始まり、葬儀・告別式に当る葬場祭、火葬後、ご遺骨を祭壇に飾り執り行われ帰家祭、精進落としに代わる会食と流れは仏式と似た形で進行します。
 会葬者はご焼香の代わりに玉串奉奠を行います。

 しかし、式次第での斎主(ご葬儀を司る神官)さんはむしろキリスト教の牧師さんと似た立場で、主導的役割を持って主体的に参加されますので、斎主さんとの打ち合わせは密にしておく必要があります。
 この場合、仏式と違い葬儀社の担当者はむしろ黒子に徹する形になりますので、神式のご葬儀に精通している葬儀社を選ぶことが大切になってきます。
 また、神式では死を穢れと捉えるためにご葬儀を神社では行なわず、仏式同様ご自宅又は斎場にて執り行います。
 
 ●神式の葬儀
  ↑↑↑ 当センターのホームページでは 神式のご葬儀に関しての注意点、問題点を挙げて、説明しています。
 神式でご葬儀されたが先祖代々のお墓に入りたい等の難問の解決法は・・・。

「自分の生き方として直葬を選びます」

 「火葬のみをすごく安い値段で引き受けているところがあって、挙げ句社員があちこち走りまわりヘトヘトになっても収益に繋がらなくて大変みたいですよ」
 ある葬儀社の担当者から聞いた話です。
 勿論ボランティアではありませんから、他からの利益はあると思いますが、これではうっかりすると荷物運びと同じになってしまわないか、サービスは二の次になってしまわないか心配です。
 
 2~3年前から都会を中心に家族・親族のみでお見送りする家族葬が盛んに言われ、最近ではご葬儀なしで火葬場に直行する直葬という言葉が新聞雑誌等にも盛んに見受けられます。
 これに対して眉をひそめる向きもいらっしゃいますが

ご依頼者様の声

あさがお葬儀社紹介センターのブログをご閲覧いただき、ありがとうございます。

当センターでは、ご依頼者に対し葬儀施行後アンケートにご協力いただいております。その中でも掲載許可をいただいた、ご相談者様の声を公開させていただいております。

http://www.asagao.or.jp/support/koe.html

「ご依頼者様の声」はこちらです。

毎月1日前後に更新をしております。
ぜひご覧下さい。

死に際の「オフィーリア」を観る不思議・・・・。

 黒山の人の列は先ほどから止まったままで皆さん1点を凝視しています。
 その視線の先には今まさに川面から沈んで行こうとしている少女がいます。
 でも助けようとしている人は誰もいません。
 助けるどころか皆さん腕を組み息を殺して見入っています。
 少女の名は「オフィーリア」。そうです、かの有名なイギリスの劇作家シェイクスピアのハムレットに出てくる悲劇のヒロインです。
 オフィーリアの命が亡くなる寸前を描いたのはイギリスを代表する画家、ジョン・エヴァレット・ミレイ。その回顧展が渋谷にありますBUNKAMURA・ザ・ミュージアムで開催中でしたので覗いてみました。
 最初にこの少女に出会ったのは20年ほど前の友人のスクラップ帳の中でした。
 スクラップされていた朝日新聞の絵画紹介記事の中でも鮮やかと緻密な描写力が群を抜いて観ていると画面に吸い込まれそうな錯覚をおこさせるほどでした。

 写真以上にリアルに描かれたうつろな表情の少女と両岸の植物の鮮やかさが異様なコントラストを見せ臨場感漂わせ、物語をさらに能弁に語らせているようでした。
 花環を小川の柳の垂れ下がった枝に掛けようとした時、枝が折れ花環もろとも川の中へ。すでに狂気の世界に心奪われていた少女にとってこの瞬間に何を思ったのだろうか。
 王妃ガートルードが語る死の場面
 「裳裾が広く広がって丁度人魚のようになって、しばらくは水面に浮かせておりました。やがて衣裳は水を含んで重くなり、楽しく歌うあのかわいそうなお人を川底の死の泥の中へ引きずり込んでしまいました」。(大山俊一訳)
 
 少女はすでに小川という柩の中に収まっているようにも感じられ、小川に浮かんでいるお花は、柩の中に手向けられた最後のお花のようにも見られます。
 黒山の人垣の後ろから、おもわずそっと手を合わせていました。