その場の空気が読めるか否かで担当者の技量が問われる・・・?

 祭壇の両脇に並ぶ供花は故人をお花で供養する意味合いが込められています。
 ご葬儀の立会いで喪主、子供一同、孫一同とお名前が書かれた札を見ていると、あれこれと故人との関わりが見えるような錯覚に陥ることもあります。
 
 最近では都会を中心にご家族・ご親族の他はごく親しかった友人だけというようなご葬儀が主流になりつつあります。
 そんな折、度々この供花について尋ねられることがあります。
 お花を出せばそれで終わりと思いがちですが、これが結構ややこしい問題を含んでいるようです。
 少し前でしたら、ご親戚の年配者がまずは故人にお花をと、てきぱき処理されことなきを得ていましたが、最近はそれぞれの家庭の事情もあり、切り出し難いこともあるようです。
 
 ご喪家側もご親戚の分はお名前だけをお借りして、一括される方もいらっしゃいますが、うっかりするとお名前を出されたご親戚の中には素直に従いにくく、押し付けがましさを感じる方も出てきます。
 ちょっとしたことが、ボタンの掛け違いで事が大きくなり、後々それがしこりになっては大変です。

 そこでベテランの担当者だったらどうされるか。
 お身内が集まった打ち合わせの時、その場のご喪家の空気を察知しながら、お花はどうされるか透かさずお尋ねするとのこと。
 お集まり頂いた方は納得され、皆さん全員がお集まりいただいているわけではないので出席されているご兄弟から言ってもらうようにする。
 ノウハウだけでは身動き取れないのが葬儀担当者。お会いして、お話を伺いながらご喪家の雰囲気を読み取り、対処していくのが担当者の役目だが、100人100様の対処の仕方があり、一言では言い辛いとのことです。
ローマは1日にしてならず・葬儀担当者も1日にしてならず・・・か?

お寺の役目は・・・。

 「お寺は町のサロンで、子供達にとっては日曜学校のような場でもあり、いつもお菓子を貰うのが楽しみだった」と九州出身の先輩から戦前のお寺の様子をよく聞かされたものでした。
 本堂は時に児童舞踊の稽古場にもなり、ご住職自ら教えていらっしゃったとのこと。
 
 しかし、お話を伺ってはいましたが、周りのお寺を見渡しても気配すら感じられなく、檀家以外の町の人にとってあまり身近な存在とは言いがたいのではと最近まで傍観者を決め込んでいました。
 
 世の中大きな事件、事故が起こるたびに「宗教家はどうしている」と周りからのシュプレヒコールばかりで、宗教者の沈黙ぶりが目立っていましたが、ここ1年程、さすがに世の中の危機感が肌で感じられるようになったためか、マスコミやネットで紹介されるようになったためか、お坊さんの活動ぶりが一般の人々の目に触れ、知られるようになってきました。

 自殺対策に取り組む方、廃業した温泉旅館をデイケアや訪問介護の拠点にして活動されている方、仕事と家を失った人の駆け込み寺になっている方、各地のお寺で金子みすヾの生涯を演じる方、医学部で教える方、バーのマスターになりお客と語り合う方等々。

 皆さんそれぞれのお立場で葬式仏教と揶揄されるだけではと、誰にでも門戸を開き、また、お寺を飛び出しての布教ぶりが注目され、旗振り役をされているようです。
 
 お葬式や法事だけではないお寺の役目が世間一般に浸透して、点から面になっていくことで、お寺さんも町の人達の意識も双方が変わってくれば、昔のサロンがよみがえってくるかもしれない。
 益々孤独な世の中に、明かりを灯す火種になるのでは・・・。
 また、葬儀の段になってにわかにお寺さんとのご縁を持つのではなく日常的なコミュニケーションが取れれば、お布施のこともおのずとわかり合えて来るのではと少しばかりの期待もしております。 

最期のお別れはいつものお顔でより美しく・・・。

 通夜やご葬儀に立会いで伺うと、式が始まる前ご会葬にお見えになられた方々が、ご喪家のご好意でご遺体とお1人ずつ最期のお別れをされ、いつもと変わらぬ姿にほっとされている姿をよく拝見いたします。
 きっとその方らしいお顔で旅立たれたのでしょう。
 私も知人の死に目には会えませんでしたが、ご自宅でのご対面をさせていただいた時、あまりにも穏やかな表情なので、一瞬目を開けて起き上がるのでは思ったほどでした。
 また、母の時もお化粧が肌に馴染んだ明るい表情に「生前の時より綺麗では」と思わず口走ってしまったことが思い出されます。
 
 病院でも死後の処置の一環とa化粧をされる方が出てきたとの報道を目にします。
 ご葬儀に対する意識の変化から、今後志望者が増えてくる分野ではないでしょうか。
 
 私だったら、どんな化粧をほどこしてもらいたいか。
 
 女性は特に一人ひとり長年独自の化粧法を持ってこだわっています。
 なるべく何時もどおりのメーキャップでいきたいが、家人はおそらくイメージでしか分らないでしょう。
 これもエンディングノートに書きとめておく必要があるようです。
 後はメーキャッパーの腕に託すというのはどうでしょうか。
 勿論ご家族のご協力も含めて。
 きっと残されたご家族も安心してお見送りすることができるのでは・・・。

清楚な森の精霊ウィリーは日本の亡霊よりも怖い存在か・・・?

 最近立て続けにバレエの「ジゼル」を観てきました。
 「ジゼル」は「白鳥の湖」と並んで日本人好みのバレエだとも言われています。
 バレエの作品の中には森の場面がよく出てきて、その森には精霊のウィリーが住み、ウィリーの世界を構築しています。
 バレエの世界ではウィリー達がある意味物語の精神的な場面を受け持ち、華麗な舞台を引き締める役目もはたしているようです。
 このウィリーの存在がメンタルなものを求める日本人に好まれ、その典型が「ジゼル」とも言われています。
 しかし、「ジゼル」のウィリーは私達が思い浮かべる妖精のような可憐なイメージとは大分異なります。

 結婚を前にして恋人に捨てられ、婚約したまま死んだ踊り好きな娘達が復讐心から墓の中で安らかな眠りをとることができずに、深夜になると墓を抜け出し、森の中で群れて集まり踊り、森に来た若者を捕まえては死ぬまで踊らせるというウィリーでもあるのです。
 1人の若者は湖に突き落され、もう1人の若者は精根尽きるまで踊らされ、もはやこれまでと思った瞬間、夜明けがやってきてかろうじて助かります。
白いロマンチック・チュチュに身を包んだウィリー達が踊る様は清楚なファンタジー一色の世界を思わせますが、実は怖い世界でもあるのです。

 日本で言えば、さしずめ夏の夜にでる亡霊か。しかし、日本の亡霊はどろどろした怨念の世界を連想させるが、ウィリーはあくまでクールで意思的です。
 矢張り、乾燥した空気のヨーロッパとじめじめした日本では精霊達が住む世界も違ってくるのでしょうか・・・。

満開の桜の思い出は・・・。

 雨にも強風にも負けず今年の関東地方の桜はまだ咲き誇っています。
 日本人の花にまつわる思い出の中でも群を抜いて、桜に勝るものは見当たらないのでは・・・とまで思わせます。
 
 花冷えに震えながらお花見の席取りに駆り出され、朝から冷たいシートに陣取っていた新入社員時代の姿も、時を経れば懐かしい思い出です。

 私も2月に亡くなった友人と都内各所の桜を見て回った思い出がよみがえります。高齢の友人の足腰が丈夫な内にと、毎年千鳥が淵から靖国神社、上野公園、新宿御苑、代々木公園、善福寺川公園、井の頭公園・・・数え上げたらきりがないほどまわりました。
 同じ満開の桜でも場所によって見事なまでに表情が変わり、その場その場にふさわしい立ち振る舞いを見せて楽しませてくれました。

 故人との思い出では4年ほど前の母の葬儀も桜の花とダブります。
 葬儀・告別式も無事終わり、火葬場入口へと向ったバスの中が一瞬にしてホワッと何かに染まったように明るくなりました。
 何事かと窓の外に目をやると、そこは満開の桜のトンネルでした。
 その時初めて今が桜の季節だと気が付き、急に胸が一杯になったことが思い出されます。

 梶井基次郎の短編小説「桜の樹の下には」でも書かれています。「桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか」

ご葬儀は担当者の気配り、心配り、目配り如何によることを再認識

 先日、ご葬儀関係のセミナーに伺い、講師の方のお話に改めてご葬儀は担当者の気配り、心配り、目配りが大切であることを認識いたしました。
 ご葬儀ではご喪家やご親族以上に一般会葬者の方が冷静な目で一部始終を見ていらっしゃいますので、担当者のちょっとした気配り心配りに敏感に反応され、それが葬儀社全体の良し悪しに直接関わり、口コミで広がりますので、影響が大きいとのことでした。
 
 ご葬儀に立会っていますと、会葬にお見えになった方々がその場の空気を敏感に感じとられるのを常々実感しておりました。
 隅々まで気配りが行き届き、ゆったりした雰囲気の中で最後のお別れができるか、はたまた、終始段取りだけに終わり、いつの間にか気が付いたらお別れの時間になってしまった。同じようなご葬儀でも、担当者の采配ぶりで全く別物になってしまいます。
 
 ご喪家の立場になりますと故人を無事お見送りすることと同じ位お招きした方々に落ち度がなかったか、良いご葬儀だったと思っていただけたかが気がかりになります。
 それを支えるのは全面的にお任せしている葬儀社の担当者であり、任せられた担当者の技量にかかわってきます。
 そのためにも、葬儀社から見積りをお取りするだけでなく、できましたら担当者とじかにお話をし、お任せできる相手かどうかお決めになることをお勧めいたします。
 後々、後悔しないご葬儀のためにも是非・・・。

都内では献体される方とのお別れもままならない・・・?

 少し前まで定員割れをしていた献体希望者が、最近では激増傾向にあり、今や順番待ちの状態との報道を度々耳にするようになりました。
 献体をご本人が希望されていても、直前になってご家族ご親族の方からの反対がでるケースも多々あるとのこと、その為か条件もさらに厳しくなっているようです。

 しかし、都内の方の場合は特にその難関を無事潜り抜けて皆様のお役に立てられるとほっとされる前に立ちはだかるものがあります。
 その一つが斎場探しです。
 都内の火葬場併設の式場はそこで火葬することが前提になっております。
 いきおい自社式場を持たない葬儀社さんは他の貸斎場を探さざるを得ない羽目になります。

 先日も「献体が決まっている都内在住の叔父が万一の時、親族や古くからの友達数人と最後のお別れをしたいがどうすればよいか。叔父には兄弟がいるだけで、ご葬儀は祭壇も要らないのですが・・・」というご相談を受けました。
 病院から直接献体先に運ばれる場合以外は、献体でも通常のご葬儀の形式は同じです。
 出棺先が火葬場か献体先の大学病院かの違いだけですが、問題は予算。
 予算を抑えるためにはまず公営斎場を探しますが、区によって有る所、ない所と様々です。
 伺えば、該当する区にはご親族何方もいらっしゃらないとの由。民営の貸斎場はお値段の点で・・・。
 依頼者は川﨑在住の方。
 それではということで結局東京を断念し、川崎市に自社斎場を所有している賛同社をご紹介させていただきました。
 何でもありの東京ですが、その分制約も色々付いてまわるようです。
 東京からの搬送を考慮しても依頼者のお住まい近くでということになりました。

斎場選びには“清潔” の2文字が重要です。

 当センターの賛同社のホームページに気配りや心配りと同様に重要なこととして 、“清潔”の2文字が挙げられているのを見て、ほっと嬉しくなりました。

というのも、ご葬儀の立会いで各斎場に伺っているうちに、「清潔」であることが斎場の重要なポイントの一つであることを実感したからです。

 先日も、伺った斎場では和室のお清め所・控室とも思わずその場に暫し留まり一服お茶を頂きたくなるような趣がありました。
 日当たりが良く、繊細な細工が施されたお部屋というだけではないようです。
 担当の方は「バブルの頃に建てられたので贅沢に創られていますが、それに恥じずにお掃除は徹底してやっています。お蔭様でお客様にも大変好評です」とおっしゃっていました。

 以前、こぢんまりした年期の入った会館に伺った時も「何と言ってもここは清潔ですよ。ゴミ箱からトイレ、台所の隅々まで管理人さんの掃除が行き届いていて、気持がいいですよ」と開口一番、葬儀社のベテランの担当者から太鼓判を押されたこともありました。

 また、区指定の斎場ではお客様を見送った後、女性スタッフがエプロン姿になり一斉にお掃除に取り掛かり、「毎回ごとに徹底的にお掃除をしてきれいにしていることが、こちらの特徴です」と手を休めず笑顔で語っていたのが印象的でした。

 センターが行っているアンケートでもお掃除が行き届いている斎場、意に反して立派な建物なのに控室の隅のゴミが最後まで気になった斎場など、高い関心が寄せられています。気配りや心配りに通じます。

 「掃き清める」と言う言葉があるくらい、お掃除が隅々まで行き渡っているかどうかが大きな決め手になるようです。

 ご遺族にとってはかけがえのない方をお見送りする大切な場所です。

 斎場を見学される場合は予算や建物だけではなく“清潔”の2文字もお忘れないように・・・。

心に残ったご出棺は・・・。

 通常1時間の葬儀・告別式もそれぞれ事情で時間が押して最後は秒刻みになり、ともするとあわただしい中のご出棺に相成るケースが多々見受けられます。
 しかし、このご出棺こそが心に残るご葬儀になるか否かの決め手にもなるようです。
 静々と執り行われるご葬儀も最後の最後にクライマックスがもたらされ、ご会葬の方々の心にその余韻が長く残るからでしょうか。

 先日のご葬儀では、出棺に際し大学柔道部のかつての仲間が大勢集まり、円陣を組み部歌で送り出す姿は圧巻で、故人には最高のプレゼントになったのではないでしょうか。

 また、終わり良ければ全て良しということではありませんが、以前、通夜の席でもめ事があり、大方のご親族によるご葬儀ボイコットというハプニングがありました。
 しかし、出棺の際、長年苦楽を共にした仕事仲間が口々に「○○ちゃん、ありがとう、ありがとう」と叫ぶやいなや、今までの重い空気が一変し、和やかなお見送りができたことが思い出されます。

 ジャズ、越路吹雪のライブ盤と大音量の音楽を流し続けた無宗教葬では、ご出棺に際しての最後の曲は一転してクラシック歌手による「さとうきび畑」でした。
 静かに流れる歌声は仰ぎ見た真っ青な空に突き刺さり、心の中まで響き渡って胸に迫ってくるようです。
 「ざわわ ざわわ」のリフレインがいつまでも耳に響いていました。

手紙に託す故人への思いは格別です。

 告別式が無事終了し、最後のお別れの儀では柩に通常故人愛用のものが入れられますが、時として、特別かかわりのあった方からのお手紙も入れられます。
 とりわけこのお手紙の存在は格別なもので、故人の人生が浮き彫りにされ、列席された方々も万感胸に迫るものがあるようです。

 先日立会いに伺った現役サラリーマンの方のご葬儀では、小学生の次男のお手紙が故人の胸にそっと置かれました。
 「お父さんへ。2週間頑張ってくれて有難う。天国のおじいちゃんと仲良くね」
 お父さんとの約束、楽しかった思い出を語る坊やの声は、悲しみ以上に決意を表わしているようでした。

 また、3年ほど前のご葬儀になりますが、ご事情で数十年ぶりにお会いされた妹さんがお兄様宛てに書かれた手紙は妹さんの声と共に思い出されます。
 「あんちゃんらしく生きた人生でしたね。
 父も母も早く亡くなったのであんちゃんにぶらさがっていました。いつも心の支えはあんちゃんでした。
 やっと○○家の重圧から解放されましたね。一宮のお墓は弟の○○が守っていきます。あんちゃんは幸せ者でした。ありがとう。安らかに眠ってください」

 耳にピアスをした若者が喪主を務められたご葬儀では、故人の妹さんからの手紙が拝読されました。
 ご事情でご葬儀に間に合わない為、遠い沖縄の空の下で綴られた弔文はお兄様への思いと最後のお別れができないもどかしさであふれ、列席された方々は涙をぬぐう間もないほどでした。
 とりわけ泣きはらした喪主の姿が印象的でした。