インド・ガンジス川の写真集を見て、ふと最近のご葬儀を考える・・・。

 儀式としての葬儀、告別式が予定通り無事滞りなく終了しました。
 柩に祭壇のお花を手向け、親族の方々の手を添えて蓋を静かにそっと閉じると柩の小窓が開けられます。
 喪主、ご家族の方々の最後のお別れです。
 凝視した視線のかすかな動きを見て取り、担当者は「よろしいですか」と声を掛けます。
 喪主のうなずきを合図に小窓が閉じられ、お別れとなります。
 時間にしてほんの数秒間が永遠の空白の様に感じられ、時は息詰まる瞬間を刻みます。
 
 今、1冊の写真集を手元に眺めながら書いています。
 「バラモンとジャンタ」1971年に出した友人の写真集です。タイトルからも推測されるように60年代後半肌で感じたインドを撮り捲った作品の数々です。
 ガンジス川で顔と手だけ出して合掌している姿、朝の光の中で沐浴する若者達、洗濯をしている少女達、炎に包まれた死体、その隣で死んだ赤ちゃんが重しを付けられ今まさに川に放り投げこまれようとする瞬間のショット、全てが混然一体となって一つの世界を創っているようです。これらはガンジス川の朝の一こまです。
 友人は戸惑いながらも何か大きな力を感じ「何処でどのような葬式をしようが、死者を神のもとへ返す。これが貴重な行為ではないか」と記しています。

 最近のご葬儀は家庭から式場に移ることで、より儀式的になり、デリケートになり、時間に管理されてきて、存在感が希薄になってきたように思われます。
 あらゆるものを包み込むインドの写真集を見るたびに、もっと根源的なおおらかさが生かされる葬儀もあってもいいのではと考えさせられます。

「自分の生き方として直葬を選びます」

 「火葬のみをすごく安い値段で引き受けているところがあって、挙げ句社員があちこち走りまわりヘトヘトになっても収益に繋がらなくて大変みたいですよ」
 ある葬儀社の担当者から聞いた話です。
 勿論ボランティアではありませんから、他からの利益はあると思いますが、これではうっかりすると荷物運びと同じになってしまわないか、サービスは二の次になってしまわないか心配です。
 
 2~3年前から都会を中心に家族・親族のみでお見送りする家族葬が盛んに言われ、最近ではご葬儀なしで火葬場に直行する直葬という言葉が新聞雑誌等にも盛んに見受けられます。
 これに対して眉をひそめる向きもいらっしゃいますが

死に際の「オフィーリア」を観る不思議・・・・。

 黒山の人の列は先ほどから止まったままで皆さん1点を凝視しています。
 その視線の先には今まさに川面から沈んで行こうとしている少女がいます。
 でも助けようとしている人は誰もいません。
 助けるどころか皆さん腕を組み息を殺して見入っています。
 少女の名は「オフィーリア」。そうです、かの有名なイギリスの劇作家シェイクスピアのハムレットに出てくる悲劇のヒロインです。
 オフィーリアの命が亡くなる寸前を描いたのはイギリスを代表する画家、ジョン・エヴァレット・ミレイ。その回顧展が渋谷にありますBUNKAMURA・ザ・ミュージアムで開催中でしたので覗いてみました。
 最初にこの少女に出会ったのは20年ほど前の友人のスクラップ帳の中でした。
 スクラップされていた朝日新聞の絵画紹介記事の中でも鮮やかと緻密な描写力が群を抜いて観ていると画面に吸い込まれそうな錯覚をおこさせるほどでした。

 写真以上にリアルに描かれたうつろな表情の少女と両岸の植物の鮮やかさが異様なコントラストを見せ臨場感漂わせ、物語をさらに能弁に語らせているようでした。
 花環を小川の柳の垂れ下がった枝に掛けようとした時、枝が折れ花環もろとも川の中へ。すでに狂気の世界に心奪われていた少女にとってこの瞬間に何を思ったのだろうか。
 王妃ガートルードが語る死の場面
 「裳裾が広く広がって丁度人魚のようになって、しばらくは水面に浮かせておりました。やがて衣裳は水を含んで重くなり、楽しく歌うあのかわいそうなお人を川底の死の泥の中へ引きずり込んでしまいました」。(大山俊一訳)
 
 少女はすでに小川という柩の中に収まっているようにも感じられ、小川に浮かんでいるお花は、柩の中に手向けられた最後のお花のようにも見られます。
 黒山の人垣の後ろから、おもわずそっと手を合わせていました。
 

 

葬儀担当者の秘訣は親戚のおばさんの目線になれるかどうかで決まる・・・。

 「先日のご葬儀では奥様と奥様のお母様から、亡くなられたご主人のご実家のことを随分聞かされました。お子さんがいらっしゃらないから、今日が最後だなんておっしゃってました。」
 ちょっと物騒な話をしているのはこの道数十年のベテラン葬儀担当者です。
 皆さん担当者に会うと一様に、ご葬儀の合間でも親戚のおばさんに長年の思いをぶちまけているような気持ちになり、聞いてもらえる人にやっと出会えたとばかりに、話し込まれていくようです。
 さりとて担当者はご家庭の事情を根掘り葉掘りうかがうわけではなく、ひたすら聞き役に徹しているようです。
 
 また、ご家族だけでお父様を見送られた1人っ子の喪主の方がショックで火葬になってもフラッとしていらしたので、ひっくり返られては大変と大丈夫と言われるまでしばらく腕を掴んでいましたよとも。
 世話焼きなおばさんは予想以上の会社関係者で混雑してきた会場に、どなたを先に座らせるか周りの空気で察し、さらに、臨機応変にイスを置き換えて、いつの間にか皆さん全員を座らせていました。気がつくと、先ほどまでのざわついた空気が一変し、静寂の中に読経の声だけが響いていました。
  
 ご葬儀の仕事を天職のように思って動き回っているよろず相談役の担当者は先ほどの喪主の奥様には「小声でそっと49日までは忍の一途ですよと言っておきました」とのことでした。

 

ご葬儀でも音楽が思いがけない力を発揮することがあります。

 映画「おくりびと」では主人公がチェロ奏者だったという想定のもと、チェロの音色が観客の心に染み渡ってくるように随所に使われ、映画全編をささえているようでした。
 チェロの音だけで生死の感情をこんなにもストレートに出せるのかとびっくりしましたが、楽器の中で人間の音域に一番近いと聞き、大いに納得させられました。
 
 ご葬儀に立ち会っていますと時として流れている音楽が思わぬ効果を発揮することがあります。
 以前、60代の女性の方のご葬儀に伺った時も、音楽を聴いて万感胸にせまるものがありました。
 無宗教葬のご葬儀は故人の大好きだった音楽をとのご要望で、式の始まる前からずっとジャズが流れ、穏やかな雰囲気の中で式は進行していきました。
 やがて、会葬者お一人お1人の献花が始まると、一気に音楽は越路吹雪のライブ盤に代わり、臨場感溢れる華やかな音楽と沈黙の献花が鮮やかなコントラストを創り、それはまるで若くしてお亡くなりになった無念さを訴えているようでした。
 歌が盛り上がればなおさら悲しみが倍加されるようにも感じられました。
 最後はさとうきび畑の歌でご出棺になりました。
 突き抜けるような青空の下、お見送りした後も、さとうきび畑のざわめきだけがいつまでもリフレインして耳に残り、しばらく立ち尽くしていたほどでした。
 

映画「おくりびと」での「食べる」行為は生と死を能弁に語っています。

 人間「食べる」という生々しい行為と生と死という厳粛な現実は一見水と油のようですが、どこか表裏一体の感があるようです。
 食べることは対象となるもの、それは動物であれ、植物であれ、全ての命を奪うことになります。
 それが動物や魚であればよりリアルに表現されます。私達は今まで生きていたものが動かなくなることで死をはっきり認識し、それを口に入れ「尊い命をいただきます」ということになるのでしょうか。
 
 映画「おくりびと」でも、「食べる」シーンが随所に出てきます。それも重要な箇所で。「食べる」という行いだけで観ている人に時間の経過やより深い意味合いを感じさせています。
 いきなり飛び込みさせられた最初の仕事で、腐った肉体と対面させられへとへとになって帰ったその夜の食卓は、生きた鳥をひねりつぶした鳥なべで思わずもどしてしまうシーン。
 仕事に慣れてきたクリスマスの夜には、事務所でチキンを貪るように食べる納棺師の姿がありました。
 主人公が仕事をやめようと決心し伺った社長の部屋ではふぐの白子を美味しそうに食べている社長の姿がありました。
 何も聞かず、主人公に網であぶった白子を差し出し「死ぬ気になれなきゃ食うしかない」と言って「困ったことにな」とつぶやく社長がいました。
 主人公が納棺をした後、お礼にもらった新聞紙にくるまった干し柿を社長と一緒に車の中でぱくつくシーン。
 生まれ故郷に帰りたい一心(?)で死ぬのがわかっていながら川を上っていく鮭の姿。
 時としてユーモラスな、また滑稽な姿を見せながらも「食べる」シーンは能弁に語っているようです。

映画「おくりびと」を観て思ったこと、その2・納棺師の仕事とは・・・。

 「新しい浴衣とパンツをご用意しておいてください」万が一の時、前もって病院の看護師さんから指示があります。最近はパジャマが多いとのことですが、着物の方が袖の下に空きがあり断然着せやすいようです。お疲れの看護師さんたちのためにも洗濯済みの浴衣でよろしいですからご用意しておきましょう。
 着替え、簡単なメイクは病院側でもほどこされるため、通常の場合あえて納棺師のご登場ということは少ないようです。
 また、長患いの方、諸般の事情でご家庭のお風呂に入れなかった方には「湯灌の儀」で身体を洗い清めてそのまま、髭剃り、メイク、旅支度への着替え等、全て湯灌の業者側ですませることができます。
 ですので、納棺師の役割はむしろご遺体が安らかな状態ではない場合に一番発揮されるのではないでしょうか。映画「おくりびと」では流れるような所作に目を奪われがちですが、主人公が最初に出会った死後2週間たった孤独死の老人の納棺。このような出来事に向かい合える真摯な気持ちがご喪家の心を揺さぶるのではないでしょうか。
ご喪家のお気持ちを汲み取り、修復していく作業はいかばかりのものなのだろうか。
 
 通常、一連のご葬儀の流れの中で納棺の儀は病院から搬送後ご家族立会いのもと、葬儀社の担当者が取り扱うことが多いようです。担当者はできるだけご家族皆さんの手を煩わせながら、お見送りをするように心がけているようです。
 但し、生前のご病気如何によっては体液から感染することもあるので処置を素早くするか、何もしないかの判断が求められることもあると聞きました。
 ご遺体をやたらに動かしてはいけない場合もあるようです。

 葬儀社の担当者の中には一つひとつが余り分業になりすぎるのはと疑問視される向きもいらっしゃいました。
 

映画「おくりびと」を観て思ったこと、その1

 伊丹監督の「お葬式」以来かな。お葬式に関することを正面から取り上げたのは。
 先日、お葬式の立会いに行った帰り、新装オープンしたばかりの新宿ピカデリーに立ち寄り、今話題の「おくりびと」の映画を観てきました。
 ウイークディの午後1番の上映ということで、周りは殆ど中高年のしかも女性の方々でした。
 主役のモックンこと本木雅弘ファンばかりではないと思いますが、話題のものに素早く反応するのは矢張りおば様パワーが一番かなと思わせる光景でした。

 オーケストラの解散で生まれ故郷の山形に帰ったチェロ奏者がひょんなことから納棺師のアシスタントになり、成長していく物語ですが、納棺の儀式の厳粛さ美しさもさることながら、この映画が成功したのはキャスティングの妙にあるのではと思われました。
 出演者一人ひとりのキャラクターがくっきりと浮き上がってくるように感じられます。
 主人公を取り巻く人たち、山崎努扮する社長の納棺師・佐々木、笹野高史扮する銭湯の常連客・平田、実は火葬場の火夫の2人が特に物語を立たせ、引き締めているように感じられました。
 特に銭湯の常連客の平田はゆったりと一見たわいない言葉を発しながら実は後半火葬場の火夫となって制服制帽姿で現れるや否や、今までの言葉が一気に生きてくる感じになります。
 銭湯のおばちゃんの死、火葬場の炉前で火夫として現れる平田は毅然として「死は門だ」そこを潜り抜けて、次に向う門なんだと話す。そして「私はその門番なのだ」と言って火葬炉のスイッチを押す。その瞬間、轟音とともに点火されます。
 朝立ち会った享年53歳の方は無事門を通り抜けられたのだろうか・・・・。
 
 次回はお話を主人公の「おくりびと」に戻します。

精進料理の野菜は生きた御仏に食べていただくことで成仏します。

 「生と死は紙一重ですわ。死と直面しているのが生。ですから天地に恥じない生を送らなくてはならないでしょう」
 交通事故で九死に一生を得て、右手右足が不自由な明道尼のお言葉に思わず居住まいを正したのは10年以上も前のことです。
 その明道尼の作る精進料理は「吉兆」創業者の湯木貞一氏に「天下一」と折り紙を付けられたそうです。
 湯気がもうもうと立ちこめる大津市の月心寺の勝手場で陣頭指揮を取る明道尼は「生きとし生けるもの皆が御仏だから、月心寺へお越しくださる御仏の皆さんに精進料理を作ることが、助けられた私の修行」と話されていました。
 勝手場は味加減、具を入れるタイミング、火加減と明道尼の号令の元、料理人全員の素早い動きと張り詰めた空気で丁度修行道場のような趣です。
 出された料理は味付けもさる事ながら、どれもが大ぶりで盛り沢山に盛られ、素材が生き生きとして、まるで命が宿っているかのようにも感ぜられました。
 「調理する者の心と料理を口にする者の心が一つの喜びとなった時、素材の野菜も成仏するにちがいないと思います」とおっしゃっていたことが今でも思い出されます。

お清めとお斎は美味しい精進料理でおもてなしを・・・。

 通夜にお出で頂いた方々にお出しするメイン料理はお寿司や肉料理のオードブル、ご葬儀が終った後の精進落しは会席膳というのが、昨今の定番になってしまった感があります。
 もともとは精進料理が主だったのがいつの間にか魚と肉料理に取って代わられてしまったようです。
 精進料理で魚や肉を使わないのは命あるものを殺さないのではなく、同じように命がある野菜に比べ動物や魚は今まで動いていたものが「死」によって動かなくなるように、生死がはっきり感じられるからだと言われます。
 私達は自分達が生きていくために沢山の命を奪って生きていることを認識し、必要以上の命を奪わないように必要最低限の栄養だけを取るための料理だったとのことです。
 通夜や精進落しの席にこそ「殺生」や「いのち」について考えさせる精進料理の出番ではないでしょうか。
 そのためにも、料理人の方に現代人の舌に合う美味しい精進料理を工夫して、さらなる挑戦をしてほしいと願います。
 先日も、2日間ともお料理は精進料理をと希望される方がいらっしゃいました。