家族葬にこそ弔辞を取り入れよう・・・。

 御家族・ご親族・ごく親しい友人のみのご葬儀が多くなる中、儀式としての読経が40~50分続くのはご列席の方々にとって時には苦行に感じることもあります。
 特に会葬者が少ない場合はお1人お一人が目立つので緊張の度合いも大きくなり、儀式としてつつがなく終わっただけの印象が強く、ともするとお別れの気持も削がれ気味になってしまいます。

 内輪のご葬儀だからこそ、最後のお別れをしっかりと心に留めておきたい方も多いのでは。

 先日、そんな思いにピッタリのご葬儀に出会いました。

 御家族・ご親族中心の家族葬に永年の友人もご参列され、引導を渡す読経の後、ご住職から少しお時間をいただき弔辞を読まれました。

 弔辞ではお身内の皆さんが知らないお仕事での活躍ぶりが披露され、ご列席の方々は大いに納得し、満足げなご様子でお別れが出来たようです。
 
 告別式の後、奥様が友人に「全部言っていただきましてありがとうございました。長生きしているとご縁が遠くなるのは寂しいです」とお礼をされている姿にはどこか毅然とした決意のようなものが感じられました。

 弔辞が読まれ、最後のお言葉を掛けてあげられた安堵感で皆様のお気持も和み、再び始められた後半の読経がより鮮明なものになっていきました。

ご葬儀は担当者の気配り、心配り、目配り如何によることを再認識

 先日、ご葬儀関係のセミナーに伺い、講師の方のお話に改めてご葬儀は担当者の気配り、心配り、目配りが大切であることを認識いたしました。
 ご葬儀ではご喪家やご親族以上に一般会葬者の方が冷静な目で一部始終を見ていらっしゃいますので、担当者のちょっとした気配り心配りに敏感に反応され、それが葬儀社全体の良し悪しに直接関わり、口コミで広がりますので、影響が大きいとのことでした。
 
 ご葬儀に立会っていますと、会葬にお見えになった方々がその場の空気を敏感に感じとられるのを常々実感しておりました。
 隅々まで気配りが行き届き、ゆったりした雰囲気の中で最後のお別れができるか、はたまた、終始段取りだけに終わり、いつの間にか気が付いたらお別れの時間になってしまった。同じようなご葬儀でも、担当者の采配ぶりで全く別物になってしまいます。
 
 ご喪家の立場になりますと故人を無事お見送りすることと同じ位お招きした方々に落ち度がなかったか、良いご葬儀だったと思っていただけたかが気がかりになります。
 それを支えるのは全面的にお任せしている葬儀社の担当者であり、任せられた担当者の技量にかかわってきます。
 そのためにも、葬儀社から見積りをお取りするだけでなく、できましたら担当者とじかにお話をし、お任せできる相手かどうかお決めになることをお勧めいたします。
 後々、後悔しないご葬儀のためにも是非・・・。

斎場選びには“清潔” の2文字が重要です。

 当センターの賛同社のホームページに気配りや心配りと同様に重要なこととして 、“清潔”の2文字が挙げられているのを見て、ほっと嬉しくなりました。

というのも、ご葬儀の立会いで各斎場に伺っているうちに、「清潔」であることが斎場の重要なポイントの一つであることを実感したからです。

 先日も、伺った斎場では和室のお清め所・控室とも思わずその場に暫し留まり一服お茶を頂きたくなるような趣がありました。
 日当たりが良く、繊細な細工が施されたお部屋というだけではないようです。
 担当の方は「バブルの頃に建てられたので贅沢に創られていますが、それに恥じずにお掃除は徹底してやっています。お蔭様でお客様にも大変好評です」とおっしゃっていました。

 以前、こぢんまりした年期の入った会館に伺った時も「何と言ってもここは清潔ですよ。ゴミ箱からトイレ、台所の隅々まで管理人さんの掃除が行き届いていて、気持がいいですよ」と開口一番、葬儀社のベテランの担当者から太鼓判を押されたこともありました。

 また、区指定の斎場ではお客様を見送った後、女性スタッフがエプロン姿になり一斉にお掃除に取り掛かり、「毎回ごとに徹底的にお掃除をしてきれいにしていることが、こちらの特徴です」と手を休めず笑顔で語っていたのが印象的でした。

 センターが行っているアンケートでもお掃除が行き届いている斎場、意に反して立派な建物なのに控室の隅のゴミが最後まで気になった斎場など、高い関心が寄せられています。気配りや心配りに通じます。

 「掃き清める」と言う言葉があるくらい、お掃除が隅々まで行き渡っているかどうかが大きな決め手になるようです。

 ご遺族にとってはかけがえのない方をお見送りする大切な場所です。

 斎場を見学される場合は予算や建物だけではなく“清潔”の2文字もお忘れないように・・・。

手紙に託す故人への思いは格別です。

 告別式が無事終了し、最後のお別れの儀では柩に通常故人愛用のものが入れられますが、時として、特別かかわりのあった方からのお手紙も入れられます。
 とりわけこのお手紙の存在は格別なもので、故人の人生が浮き彫りにされ、列席された方々も万感胸に迫るものがあるようです。

 先日立会いに伺った現役サラリーマンの方のご葬儀では、小学生の次男のお手紙が故人の胸にそっと置かれました。
 「お父さんへ。2週間頑張ってくれて有難う。天国のおじいちゃんと仲良くね」
 お父さんとの約束、楽しかった思い出を語る坊やの声は、悲しみ以上に決意を表わしているようでした。

 また、3年ほど前のご葬儀になりますが、ご事情で数十年ぶりにお会いされた妹さんがお兄様宛てに書かれた手紙は妹さんの声と共に思い出されます。
 「あんちゃんらしく生きた人生でしたね。
 父も母も早く亡くなったのであんちゃんにぶらさがっていました。いつも心の支えはあんちゃんでした。
 やっと○○家の重圧から解放されましたね。一宮のお墓は弟の○○が守っていきます。あんちゃんは幸せ者でした。ありがとう。安らかに眠ってください」

 耳にピアスをした若者が喪主を務められたご葬儀では、故人の妹さんからの手紙が拝読されました。
 ご事情でご葬儀に間に合わない為、遠い沖縄の空の下で綴られた弔文はお兄様への思いと最後のお別れができないもどかしさであふれ、列席された方々は涙をぬぐう間もないほどでした。
 とりわけ泣きはらした喪主の姿が印象的でした。

弔電は残された家族の癒しにもなります・・・。

 電話口で「○○さんのご葬儀は何時からですか」といきなり聞かれることが度々あります。
 えぇ・・何かの間違いでは・・・? 気を取り直して事情を伺うと、弔電を打ちたいのでお式の時間が知りたいとのこと。慣れないことで戸惑われていらっしゃるようです。
 そういえば、最近では日常生活に電報を打つ機会なんてめったにお目にかかりません。
ましてご葬儀のように特殊な状況下ではどんな文面にしたらよいのか、迷ったあげく、差し出された例文をそのまま引用されるケースが多く見受けられるようです。

 というのも、今まで多くのご葬儀に立会いましたが、ご葬儀には弔電は付き物とばかりに用意された儀礼的な文面ばかりが目立ち、あまり思いやりが感じられませんでした。
 いつの間にか弔電は葬儀・告別式が終ってほっとした会場の空気の中で、おもむろに司会者が読み上げる、一つの儀式という認識位しかもてなくなっていました。
公的な社葬や合同葬ならいざ知らず、家族葬のような内々のご葬儀まで同じで、その部分だけを妙によそよそしく感じていました。

 そんな折、立ち会ったご葬儀で菩提寺のご住職の読経が通常より10分ほど長引くことが分り、急遽ご喪家の了解のもと、弔電を全てカットすることになりました。
 葬儀・告別式が無事終り、安堵の空気が流れるも、いつもの弔電は読まれません。
 最後のお花入れの儀とあわただしく移行していきます。
 故人やご喪家の方々への哀悼の辞を表する間がなく、お別れの儀をしていても、何か忘れ物をしたような錯覚を覚え、少々慌てました。
 思いがけないところで弔電の役目を見つけ、弔電のよさも少し見直しました。

お別れするだけで何もしない1時間は貴重なひとときです

 無宗教葬は時間が余ってしまうとか、手持ち無沙汰になってしまうことが多いとよくいわれますが、本当にそうでしょうか。
 少なくとも最後のお別れです。なによりも気持ちが大切です。義理で参列したり、直接の接点もない方の葬儀に伺ったりしなければ、故人との思い出に浸る時間も必要です。
 
 先日伺った無宗教葬では、会葬者が自由に時間を過ごしながらも、めいめいが故人ときっちり向かい合ってお別れしているような空気が強く感じられました。
 葬儀社の担当者が喪主と打ち合わせに入るとまず第1に言われたことは「何もしないでほしい。」とのことでした。
 無宗教ですから、献花する時間だけとってもらえればそれだけでよいと。
 
 オペラのアリアが流れる中、お集まりいただいた方は三々五々おしゃべりに興じているようにも感じられました。喪主が時々話の輪に入ってリラックスした雰囲気のままに30分が経過しました。30分後、お1人ずつの献花が終わり、最後のお別れの儀ではゆっくりと故人に話しかけながらのご対面となりました。
 なにもしないでひたすら故人との対話の時間を作ってあげるだけ。こんなひとときがあってもよいのではと思わされました。
 
 葬儀といえば1時間の中身の殆どを儀式で占められ、出席された方もひたすらそれに従っているように見受けられるのに慣れてしまった目には新鮮です。
 大好きな胡蝶蘭に囲まれた写真の主は1時間皆さんとのおしゃべりを堪能され、満足そうな表情で出棺されました。 

ご葬儀でも音楽が思いがけない力を発揮することがあります。

 映画「おくりびと」では主人公がチェロ奏者だったという想定のもと、チェロの音色が観客の心に染み渡ってくるように随所に使われ、映画全編をささえているようでした。
 チェロの音だけで生死の感情をこんなにもストレートに出せるのかとびっくりしましたが、楽器の中で人間の音域に一番近いと聞き、大いに納得させられました。
 
 ご葬儀に立ち会っていますと時として流れている音楽が思わぬ効果を発揮することがあります。
 以前、60代の女性の方のご葬儀に伺った時も、音楽を聴いて万感胸にせまるものがありました。
 無宗教葬のご葬儀は故人の大好きだった音楽をとのご要望で、式の始まる前からずっとジャズが流れ、穏やかな雰囲気の中で式は進行していきました。
 やがて、会葬者お一人お1人の献花が始まると、一気に音楽は越路吹雪のライブ盤に代わり、臨場感溢れる華やかな音楽と沈黙の献花が鮮やかなコントラストを創り、それはまるで若くしてお亡くなりになった無念さを訴えているようでした。
 歌が盛り上がればなおさら悲しみが倍加されるようにも感じられました。
 最後はさとうきび畑の歌でご出棺になりました。
 突き抜けるような青空の下、お見送りした後も、さとうきび畑のざわめきだけがいつまでもリフレインして耳に残り、しばらく立ち尽くしていたほどでした。
 

ベテラン担当者はどんな場合でも任せて大丈夫という安心感を与えます。

 ご葬儀はやり直しがきかないものです。その分、色々と予想外のことも起きます。
 出来事には一つ一つ乗り越えていくしかありませんが、ベテランの担当者ともなるとただがむしゃらにぶつかって行くのではなく、、豊富な経験を踏まえて、俯瞰で物事を見ながら、どんな時にどう対処するのがベストなのか判断し、常に自分の中で流れを創っていっているように見受けられます。
 またそれが見る人にとって安心感と写るようです。
 その安心感こそがご喪家にとっては不可欠なものと思われます。
 
 ご親族以外の会葬者数が読み辛く当日まで分からない場合があります。 
 問い合わせやら供花の数やら、もろもろの現象から判断し、様々なシュミレーションを描きながらあたっても予想外のことは起こります。
 予想会葬者150名ほどのご葬儀に通夜客が500名近くいらっしゃったことがありました。
 内200名近くは中高生とそのご父兄の方々で故人のお子さん達の同級生。また親族を除く250名近くが故人の会社関係者とのこと。
 斎場は最大300名ほど収容の会場なので、半数近くの方には寒い戸外でお待ち願い、特に中高生は多少の暖房では効かない寒さに耐えて頂く羽目になってしまいました。引率の先生は生徒達のお食事は結構ですとおっしゃていたのですが、親族側から他のご葬儀の時も頂いたから今日は是非との急な提案をされ担当者は困惑。結果としては、会社関係のかたが殆どお食事をされなかったのでなんとか事なきを得たようです。
 また式場のイスの関係もあり、一般ご焼香も3列しか出来ず、かなりの長時間になってしまったようです。担当者は度重なる難題に少々ばたばたしながらも一生懸命取り組んでいました。このような時ベテランの担当者だったらどう取り組むか色々考えさせられました。
 
 以前、親族10名ほどの無宗教葬をご希望でしたが蓋を開けたら100名近くの会葬者がいらっしゃった時の担当者のことを思い出しました。
 矢張り、通夜前日問い合わせが葬儀社に殺到したので、急遽お食事を30人分に変更。故人はインターネット関係の現役の方でした。あっという間に知れ渡り、通夜客は増えるばかり。さらに都合が悪いことに、式場はお清め所が見渡せるオープンな空間にありました。担当者は会葬者を出来るだけお清め所に行かせない策を練りました。
 幸い無宗教葬なので一般会葬者のご焼香の後も皆さん閉式まで式場にいらっしゃいます。閉式後そのまま棺の蓋を開け、続けて通夜客のためのお別れ会となり、献花をしていただきました。献花のお花も生花の中から切花にして、お一人ずつに手渡され最後のお別れになりました。献花が終ったのはお清めの時間も大分経ってからでした。
 翌日のご葬儀も通夜と同じくらいの会葬者が集まりました。時間の配分を考慮し、ご焼香から最後のお別れ花まで会葬者全員でお一人ずつ手向け、無事定刻5分前には出棺となりました。途中かなり時間が押しても皆さんじっくりとお別れすることが出来ました。気が付くと担当者のペースにはまっていたようです。
 
  
 
 
 
 

社葬は最も個性がきわだつ葬儀です。

 皆さんは社葬のお手伝いをしたことがありますか。
 開式1時間以上前斎場に集合し、社員としてこれから始まる社運を賭けた儀式に緊張の面持ちで臨んだことと思います。
 不慣れな上に会社主体の組織的な儀式となれば表面的で無個性さが目立つように思われがちですが、傍から見ていると意外に個性的な面が浮き彫りになり故人の人となりがでるように思われます。
 というのも永年経営にタッチされたり、ご自身で創業されたりとその社を牽引されてきた方々ですので、会社の空気が故人とイコールになっている場合が多く、強い個性は組織をも包み込んでしまわれているようです。

 先日立会いましたお別れ会は豪放磊落でならした弁護士さんでした。
 ご葬儀は思い出コーナーやお食事、返礼品の類は一切ありませんでしたが、多くの先輩後輩に慕われた故人の想いが集まった参列者に十分伝わった式になったように思われました。
 シンプルであるゆえに最後のお別れに集まった方々と故人との繋がりがすっきりと浮き出たご葬儀になったようです。

 護国寺で行われましたお別れ会の場合は故人の墨絵、油絵、写真等の作品がロビーいっぱいに飾られている中、社員一同一丸となってきびきびと動いている様は傍から見ていてもよく分かりました。
 創業者が亡くなられ、長男への引継ぎ最中で当日は大切なお披露目の日でもあるわけです。関連会社にあいさつ回りの間をぬって行われた葬儀社との打ち合わせの中にもこれからの新体制の会社をいかにアピールすることができるか気にかかっていらっしゃるご様子。先代社長に成り代わって100名の社員が総出で新社長をバックアップしながら、団結力の強さを見せた葬儀になりました。

 社葬とは威厳をもって静々と進行するものだと言われるが、故人の個性が際立つ葬儀
でもある。

 

学友の弔辞からお孫さんの手紙まで肉声は強力な演出です

 斎場での葬儀・告別式は通常1時間を予定している場合が殆どです。
 この1時間の中に繰り上げ初七日法要、柩にお花を手向けるお別れの儀まで含めると時間一杯になってしまいますが、時には開式を5分早めて生前故人と交わりの深かった方々に弔辞を述べて頂くことがあります。お孫さんの手紙の朗読だったりもします。
 
 そのわずかな時間が会葬者にとって不慣れな読経をじっと聞いている緊張感のなかで唯一ほっとする場面でもあります。
 同時に故人を会葬者全員で偲ぶという一体感が生まれ、式場全体の空気も前後では変わってくるように思われます。
 社葬の弔辞のようなどちらかといえば公的なものであっても、内輪の式でのほのぼのとしたお孫さんのお話からでも故人の人となりが垣間見られ、会葬者各人の想いと重なって密度の濃いお見送りになるようです。
 
 以前事情があり、故人のご実家からは妹さん一人がお見えになったご葬儀の終盤「突然ですが別れの手紙を書いてきたので読ませていただいてよろしいですか」と遠慮がちに立ち上がりお話になりました。
 「あんちゃんらしく生きた人生でしたね。父も母も早く亡くなったのであんちゃんにぶらさがってました。いつも心の支えはあんちゃんでした。二人の娘も私があんちゃんと言っているので伯父さんではなくあんちゃんでした。やっと実家の重圧から解き放されましたね。実家のお墓は弟が守っていきます。あんちゃんは幸せ者でした。安らかに眠ってください。義姉さん、有難うございました」
 最後のお花入れの儀では出席者一同泣き笑いながら和やかな出棺となりました。