ご葬儀で会社を何日休みますか・・・。

 お身内の方が危篤状態で取る物も取りあえず病院に駆け付け、後は夢中で過ごし、我に返った頃にはご葬儀が終っていたということはよく耳にします。
 悲しみの中にも喪主や施主の重責が両肩に掛かりご葬儀が終るまで気が抜けない毎日になります。
 最近では人気の斎場を押さえるために、3~4日長ければ1週間もの待機を余儀なくされてしまいます。
 付き添いの疲れがご葬儀の前に一度ピークに達し、通夜・葬儀・告別式が始まると再び疲れが加速されるようです。
 その間、会社を何日どのように休むことができますか。また、休められますか。
 人によっては、転勤で遠方から駆けつける方もいらっしゃいます。
 先日、大阪の会社の方から、ご質問のメールを頂きました。
 大阪では亡くなられた次の日が通夜、その翌日が葬儀・告別式というのが一般的ですが、首都圏の事業所からこちらでは斎場の予約が取れず3~4日待つのが当たり前になってきているとの意見が寄せられています。現状はどんなものだろうか。従来の忌引休暇を状況によっては変えていく必要に迫られると思いますのでということでした。
 首都圏のサラリーマンにとっては、仕事との兼ね合いをなんとかやりくりしながらの休暇申し出、ということになるのでしょうか。
 従来のように、会社の就業規則で忌引休暇は一律何日 というだけでは難しい状況になっているようです。
 嘗てのようにご自宅でご葬儀が執り行われた頃とは違い、殆どのご喪家が斎場で最後をお見送りするようになって、日にちが限定され、引き伸ばされ、自由が効きづらくなった分、忌引休暇も臨機応変に対応してほしいものです。
 冠婚葬祭による休暇は法律上の既定はなく、あくまで会社の就業規則の範ちゅうですので、皆さんで声を大にして、特別休暇を申請しましょう。

 

「心のケア」がこれからのご葬儀の鍵になる・・・。

 ご葬儀の立会いでお伺いする時、思わず丹田に力が入り、両足を踏ん張る場面があります。
 告別式の後、最後のお別れのお花入れの儀でお花を手向け棺の蓋を閉めるまでの数分間は、後方にお邪魔していても足が立ちすくんだようになってしまうことが度々です。
 故人とご遺族の絆の強さに圧迫され、時として息苦しさを感じることもあるくらいです。
 永遠の別れは分っていてもいざその時が今であることを許せない気持ちが交差しているように思われ、ご遺族が最後に棺の窓を閉めるかすかな音にいたたまれず逃げ出したいような気持ちにさせられることもしばしばです。
 
 しかし、部外者があれこれ想像してもこればかりは当事者でないと本当の悲しみは分りません。
 この悲しみもいずれ時が解決してくれるからと言われてきましたが、最近は身の回りが落ち着いて来れば来るほど取り残されたように心の澱となって残り、心の問題から身体の変調を来たす方が増えているとも伺います。
 そんな中、1人で抱え込み途方にくれる方に少しでも手を差し延べられるようにと心のケアをアドバイスするところも出てきています。
 より核家族化していくこれからのご葬儀は単に儀式だけではなく、時として心のケアを含めたアドバイスも重要な要素として挙げられて来るのではないかと思われますが・・・。
 

  

葬儀に関するお話でなく、申し訳ありません。

あさがお葬儀社紹介センターのブログをご閲覧いただき、ありがとうございます。

今回は葬儀に関するお話でなく、申し訳ありませんが、
先日ある方にお食事の誘いをいただき、行って参りました。

南浦和駅で待ち合わせをしまして、タクシーに乗ること5分くらいだったでしょうか?
そこは、川魚料理・鰻の「小島屋」。創業200年超の老舗でした。

小島屋さんに到着し、まず、敷地の広さとその佇まいに驚きました。
コイ、鰻、ご飯、肝吸い、お新香を頂きました。
鰻はもちろんですが、ご飯がとても甘く、美味しかったです。

浦和の名物といえば実はうなぎだそうです。

昔は、うなぎの生息に適した沼地が多かったそうで、良くうなぎが獲れたそうです。
調べてみると、今現在も浦和にはたくさんの鰻屋さんがあります。

非常に良い経験をさせていただきました。

これからの葬儀のキーワードは「おいしいお料理でおもてなし

 ご葬儀の後、落ち着いてくると以外にも話題の中心は通夜のお清めや精進落しに出されたお料理の良し悪しに移ってくることが多いようです。
 食べ物の恨みは恐ろしく、少し前までは、お葬式の料理に美味いもの無しなどと半ば公然とおっしゃる方もいらっしゃるくらいでしたが、最近は祭壇以上にお料理に気を使うご喪家も増えてきています。
 これは葬儀の形態がご家族ご親族を中心にした家族葬が増えてきたことと連動しているようにも思われます。
 「お忙しい中を遠路来て頂いた方には、おいしく召し上がって頂きたい」「おもてなしは母の遺言ですので」と積極的にお仕着せではないプランを話される方もいらっしゃいます。
 先日は通夜、告別式共精進料理のみでお願いしますとおっしゃる方や、京都出身なので湯葉を中心にした料理を注文された方、精進落しは故人の行きつけの料理屋さんでとおっしゃる方等、それぞれのご喪家に見合ったおもてなしに気を配っていらっしゃるのが目に付きます。
 また、当センターのご利用者アンケートでもお料理への注文やお褒めの言葉がよく目に留まります。
 一方の葬儀社の担当者も関心が高まり、関東一円数十社もの料理を試し、やっとどなたにも満足頂ける店に出会ったというつわものもでてきています。
 お気持ちのこもった見送り方は各人各様ですが、「おもてなしの心」もキーワードのひとつになるでしょう。
 
  
 

バレエ作品「瀕死の白鳥」と赤ちゃんの葬儀が二重写しになって・・・。

 先日、ロシアを始めヨーロッパのバレエ団からの編成による新潟県中越沖地震チャリティーバレエガラコンサートで「瀕死の白鳥」というバレエを観ました。
 どちらかといえば長時間でアクロバティックな作品が多い中、この「瀕死の白鳥」はたった数分間ですが、傷ついた白鳥がもがき苦しみながらも最後の力を振り絞って懸命に生きようとする姿を描き、最後に静寂な死を迎える作品です。
 1羽の白鳥が刻一刻と迫りくる死に対して何度も何度も立ち向かっていく様は壮絶でもあり、生きることの意味を問うているようにも見受けられます。
 また、観るものに生きる勇気を与えてくれるようでもあります。
 バレリーナの手はいつしか羽ばたく羽になり、一羽の白鳥になり、飛び立とうと何度も何度も一生懸命試みられ、倒れながらも次第に立てるようになります。
 そして、さらに高く翼の手をあげるが、ついに力尽き、静寂な時を迎えることになります。 
 その数日前、生後間もない赤ちゃんの葬儀のご依頼がありました。赤ちゃんは誕生前からの難病との闘いで、短い命を懸命に生きられたとのことです。舞台上の白鳥と二重写しになり、胸にズシリと響いてきました。

団塊世代が考えるお葬式とは・・・・。

 先日、ある新聞社の記者の方からご葬儀のことでお電話を頂きました。
 中で「特に中高年からの相談でどんなことに関心が高いのか知りたい」との質問がありました。
 
 実際、電話口やメールで頂く問い合わせは老若男女様々です。
 少し前までは若い方の方がご葬儀に関する話題の抵抗は低いように思われましたが、中高年と言われて改めて見渡すと、最近、年齢別のタブーはあまり感じられなくなってきています。
 特にここ1~2年の傾向は顕著のようです。
 マスコミに取り上げられる機会が増えたこともありますが、なんと言ってもインターネットの普及が第1に挙げられると思います。
 永年タブー視されていたこと、聞きづらかったことがおおやけにされ、年齢を問わずアクセスできる強みが大いに発揮された分野の一つではないでしょうか。
 定年を迎えた団塊世代が自身のこれからの生き方を問う問題と、親御さんを見送る問題がクロスし、クローズアップされてきています。
 重い家制度ではなく、家族単位の生き方が定着してきた最初の世代でもある団塊世代が、ご両親の見送り方を自身の生き方として捉え、周りに気兼ねすることなくご家族・ご親族のごく親しい方々中心に実行される方が増えてきています。
 この傾向はさらに拍車がかかることでしょう。
 会社という枠の中から個人に戻り、これから自身のしたいことを中心に活動したいと模索している団塊世代の発言はどの業界も目が離せないようです。
 
 

 

センターの特長

あさがお葬儀社紹介センターのブログをご閲覧いただき、ありがとうございます。

当センターの特長を紹介しておりますページをご紹介いたします。
http://www.asagao.or.jp/support/soui.html

他社との相違点、各葬儀社の特徴を把握し最適社の紹介するなどといった内容をご説明しております。ぜひご覧下さい。

「供花はどうしても必要なものですか?」

 「供花はどうしてもあげなくてはいけないものなのですか」
 葬儀社から取り寄せた概算見積書をお送りした後、依頼者の方との電話口でのやりとりです。
「あくまで故人様に対するお気持ちですので、強制ではありません」唐突な質問に言葉を詰まらせ、そんなお答えをした覚えがあります。
 仕事で半ば慣例化されたようになってしまった事柄も、一つ一つ問い詰めていくと、現在では必要のないものも出てくるかもしれません。
それぞれのご家庭により、またその方によりご葬儀の基準も多種多様になって来つつあります。
 でも、お気持ちだけはできるだけ残したいものです。合理的にどんどん削っていけば、お花なんて必要ないかもしれません。
 葬儀社の担当者に伺うと、「ある本にこんな一文がありましたよ」と知らせてくれました。

 「慈愛、忍辱(にんにく)の徳を表わし花を捧げることにより、清らかなやさしい気持ちで仏様を拝み、自身が慈悲の心を持ち続けたいと願うもの・・・」
 
 仏教の修行で個人だけでなく、他人をも悟らせる教えの六波羅蜜に「忍辱行」というのがあり、「忍辱」とは耐え忍びこらえる事だが、耐えることでポジティブに自分を育てることになるとのことです。
 お花を捧げることで自身もその心を持ち続けたいということであれば、どんな形であれ、あげる、あげないの問題ではないように思われますが・・・。

これからのお墓選びはその人の生き方にかかってくる・・・。

 久しぶりのお墓参りや新盆で大忙しのお盆も終って、皆さん再び都会の雑踏に戻っていらっしゃいましたが、昨今、その菩提寺とのトラブルを耳にすることが多くなってきました。
 それもご葬儀を機に不満が頂点に達してしまい、双方気まずい雰囲気になってしまうケースがよく聞かれます。
 どちらかといえば古くからの檀家の方よりも、あたらしくお墓を買われた方や、1代前に買われた方からの不満の声の方が大きいようです。
 原因はそれぞれですが、古くからの檀家の方は昔からの家中心で、代々の墓を守る体制ができていますので、多少のことは目をつぶれます。
 しかし、新しい方は現在の菩提寺とのかかわりを重視するため、意見が合う合わないがトラブルの一因になってしまい、ご住職との相性が問題視されてしまっているように思われます。
 そのために、半永久的と思われていた菩提寺と檀家の関係も流動的になってきているようです。
 お寺サイドもそれを見通してか最近はお客様のニーズに応えるような積極性を見せ始めています。
 少子化やシングルライフの傾向に合わせるように永代供養形式の合同墓ができると、永代供養の限度の33回忌もご夫婦の後から来た方の33回忌に合わせて合葬するようにしたり、分骨でもお預かりしたり、宗派は問わず無宗教でも受け付けたりときめ細かな対応がされるようになってきています。
 生活様式も各人各様、お墓の選択はその方の生き方にかかってくる時代になっていくのでしょうか。
 
 

一時的に栄えて消えてゆく葬儀社

 現状、葬儀社をやるのに行政庁による許認可は必要ありません。それゆえ、明日から誰でも葬儀社をやろうと思えば葬儀社を始めることができます。 特に都心部では、新しく葬儀社ができたり、消えていったり、出入りも激しくなっていて、葬儀社の数を正確に把握するのさえ困難です。

 余計なお世話ながら、さらには、他人事ではないので(否、他人事ではないからこそ)、私は、どういった会社が長続きしないのかということに大いに興味を覚えています。

 京セラの創業者である稲盛和夫氏であれば、仕事の結果=考え方×熱意×能力、という方程式に照らし合わせて、熱意と能力があっても、考え方が間違っていれば没落していくと喝破されるでありましょう。

 どういう考え方が間違っているのかの本質的なことは、稲盛氏の本を読んでもらうしかありませんが、他業界にない葬儀業界に特有とでもゆうべきこととして、私が思っているのは、生活者(消費者)をばかにしているところは、ダメだろうなということがあります。

 たとえば、ばかにする意識はホームページの表現でみると大体わかる感じがします。誤解を与える表現や、誇大表現、情報を手前勝手に解釈したりしています。生活者が葬儀については何もわからない素人だということを前提にして軽く見ているわけです。葬儀の情報は、たとえば自動車や住宅、家電のように楽しみを伴って自ら進んでどんどん情報を得てやろうと思うような類でないという葬儀業界特有な背景です。

 しかしながら、リンカーンの言葉に、「すべての人を一時的にだましておくことはできるし、一部の人をいつまでもだましておくこともできる。しかし、すべての人をいつまでもだまし続けることはできない」というのがあるそうです。うなずくばかりです。