赤い霊柩車やお花いっぱいの霊柩車、いろいろあっていいのでは・・・。

 昨今では宮型霊柩車乗り入れ禁止の火葬場が増えています。
 いろいろな理由がある中で、一目瞭然ご葬儀の車と分ってしまうことに拒否反応を示す方が多いようです。
 「そう言えば都会では最近見かけないなー」としばし、考え込んでしまいました。
 
 そんな折、ある搬送会社の社長さんにお目にかかり、ユニークなお話を伺いました。
 今の仕事の前は改造車を創っていらしたとのことです。
 依頼者のご要望に合わせて霊柩車を改造するのが得意とのこと。
 中でもユニークなのは赤い霊柩車。だれがそんな車に乗るのかって・・・。
 天寿を全うされた方のご遺族から、お祝いの気持ちを込めたもので送りたいとの話から、ヒントにされたようです。
 
 逆に、小さなお子さんを亡くされたお母様が柩に寄り添って行かれたのを見て、少しでも心残りがないように、白いかわいらしい霊柩車を創られたとのことです。
 霊柩車の中はお花で埋め尽くされたり、またあるときはディズニーの縫いぐるみ人形
が占領したりと、お子様の最後の夢をくんであげようとその一生懸命さが伝わってくるようです。
 
 柩が霊柩車に収まり、皆様全員が注目の中、ドアが静かに下ろされました。
 そこには鮮やかな文字で奥様へのお礼の言葉が記されていました。
 生前、奥様に面と向って感謝の言葉一つ言ってあげられなかったご主人からの最初で最後のメッセージです。

 お話を伺った後、早速社長さんは霊柩車の運転手さんに早変わりです。
 運転をしながら、ご遺族の悩み、ご希望を聞き、それが次のアイディアになるとのことです。
 なにごとも「できる」と「断らない」がモットーだそうです。

神式での葬儀

 最近、神式のご葬儀の事前相談で祭壇には大好きなお花を飾って欲しいというご要望がありました。
 ご希望の斎場には常設の仏式、神式、キリスト教式等の祭壇がご用意され、こちらを使うことが義務付けられています。
 シンプルな神式祭壇では花を飾ることに抵抗があるように見受けられましたが、最近では宗派によっては、あまりうるさく言われないようになってきたとのことです。
 柩周りや遺影の額周りを中心に祭壇はそのまま活かしてお花が飾られることになりました。

 神式の葬儀は神葬祭と呼ばれ、以前より大分簡略化されてきました。
通夜・通夜ぶるまいに当たる通夜祭、直会(なおらい)に始まり、葬儀・告別式に当る葬場祭、火葬後、ご遺骨を祭壇に飾り執り行われ帰家祭、精進落としに代わる会食と流れは仏式と似た形で進行します。
 会葬者はご焼香の代わりに玉串奉奠を行います。

 しかし、式次第での斎主(ご葬儀を司る神官)さんはむしろキリスト教の牧師さんと似た立場で、主導的役割を持って主体的に参加されますので、斎主さんとの打ち合わせは密にしておく必要があります。
 この場合、仏式と違い葬儀社の担当者はむしろ黒子に徹する形になりますので、神式のご葬儀に精通している葬儀社を選ぶことが大切になってきます。
 また、神式では死を穢れと捉えるためにご葬儀を神社では行なわず、仏式同様ご自宅又は斎場にて執り行います。
 
 ●神式の葬儀
  ↑↑↑ 当センターのホームページでは 神式のご葬儀に関しての注意点、問題点を挙げて、説明しています。
 神式でご葬儀されたが先祖代々のお墓に入りたい等の難問の解決法は・・・。

「自分の生き方として直葬を選びます」

 「火葬のみをすごく安い値段で引き受けているところがあって、挙げ句社員があちこち走りまわりヘトヘトになっても収益に繋がらなくて大変みたいですよ」
 ある葬儀社の担当者から聞いた話です。
 勿論ボランティアではありませんから、他からの利益はあると思いますが、これではうっかりすると荷物運びと同じになってしまわないか、サービスは二の次になってしまわないか心配です。
 
 2~3年前から都会を中心に家族・親族のみでお見送りする家族葬が盛んに言われ、最近ではご葬儀なしで火葬場に直行する直葬という言葉が新聞雑誌等にも盛んに見受けられます。
 これに対して眉をひそめる向きもいらっしゃいますが

精進料理の野菜は生きた御仏に食べていただくことで成仏します。

 「生と死は紙一重ですわ。死と直面しているのが生。ですから天地に恥じない生を送らなくてはならないでしょう」
 交通事故で九死に一生を得て、右手右足が不自由な明道尼のお言葉に思わず居住まいを正したのは10年以上も前のことです。
 その明道尼の作る精進料理は「吉兆」創業者の湯木貞一氏に「天下一」と折り紙を付けられたそうです。
 湯気がもうもうと立ちこめる大津市の月心寺の勝手場で陣頭指揮を取る明道尼は「生きとし生けるもの皆が御仏だから、月心寺へお越しくださる御仏の皆さんに精進料理を作ることが、助けられた私の修行」と話されていました。
 勝手場は味加減、具を入れるタイミング、火加減と明道尼の号令の元、料理人全員の素早い動きと張り詰めた空気で丁度修行道場のような趣です。
 出された料理は味付けもさる事ながら、どれもが大ぶりで盛り沢山に盛られ、素材が生き生きとして、まるで命が宿っているかのようにも感ぜられました。
 「調理する者の心と料理を口にする者の心が一つの喜びとなった時、素材の野菜も成仏するにちがいないと思います」とおっしゃっていたことが今でも思い出されます。

お清めとお斎は美味しい精進料理でおもてなしを・・・。

 通夜にお出で頂いた方々にお出しするメイン料理はお寿司や肉料理のオードブル、ご葬儀が終った後の精進落しは会席膳というのが、昨今の定番になってしまった感があります。
 もともとは精進料理が主だったのがいつの間にか魚と肉料理に取って代わられてしまったようです。
 精進料理で魚や肉を使わないのは命あるものを殺さないのではなく、同じように命がある野菜に比べ動物や魚は今まで動いていたものが「死」によって動かなくなるように、生死がはっきり感じられるからだと言われます。
 私達は自分達が生きていくために沢山の命を奪って生きていることを認識し、必要以上の命を奪わないように必要最低限の栄養だけを取るための料理だったとのことです。
 通夜や精進落しの席にこそ「殺生」や「いのち」について考えさせる精進料理の出番ではないでしょうか。
 そのためにも、料理人の方に現代人の舌に合う美味しい精進料理を工夫して、さらなる挑戦をしてほしいと願います。
 先日も、2日間ともお料理は精進料理をと希望される方がいらっしゃいました。  

火葬船構想とはいかに

団塊の世代が平均寿命を迎える約20年後には、死亡者数が現在の1.5倍の水準になると予測されています。

厚生労働者などによると、2007年の全国の死亡者数は約110万人で、年々増え続け、2039年のピーク時には、166万人に達するということです。

こうした中、全国の自治体(火葬場の9割以上は公営)が火葬場の増設に動き出しています。
建設費用も莫大な額になります。たとえば、東京都大田区など5区が2004年に共同設立した臨海斎場は、初期投資を抑えるため、需要予測の半分に満たない8基でスタートしたが、それでも用地費や建設費に90億円かかったといいます。
2002年に完成した横浜市の北部斎場は16基で350億円まで予算が膨らんだそうです。

ただ現在、市町村が火葬場をつくる際には、国からの助成金や補助金の交付はありません。財政基盤が脆弱な自治体では、一般会計(税金)に基づく自己資金のみでの計画は極めて難しくなってきています。地方債で賄うというような方法になってきます。

もっとも、重い費用負担だけが課題ではありません。火葬場建設にはもっと根本的な問題が控えています。仮に予算が十分あったとしても、そもそも火葬場が簡単には作れないということがあります。

それは地域住民の反発があるからです。原発や基地と同じように、地域住民と公の利害が対立する構図です。

それゆえ、こうした問題は簡単には解決できません。自由主義社会では、この種の問題は常についてまわります。裏をかえせば、こうした問題を簡単に解決できる社会は、本当の意味で自由主義社会ではないということです。

地域住民と公の利害の調整は一筋縄ではいかないので、なるべく調整の労力が少なくて済むアイデアとして、「火葬船」構想がでてきました。財団法人日本船舶振興会が提唱し、3千トン級のフェリーに10基程度の火葬炉を設け、接岸して葬儀をするというものです。

ご葬儀で会社を何日休みますか・・・。

 お身内の方が危篤状態で取る物も取りあえず病院に駆け付け、後は夢中で過ごし、我に返った頃にはご葬儀が終っていたということはよく耳にします。
 悲しみの中にも喪主や施主の重責が両肩に掛かりご葬儀が終るまで気が抜けない毎日になります。
 最近では人気の斎場を押さえるために、3~4日長ければ1週間もの待機を余儀なくされてしまいます。
 付き添いの疲れがご葬儀の前に一度ピークに達し、通夜・葬儀・告別式が始まると再び疲れが加速されるようです。
 その間、会社を何日どのように休むことができますか。また、休められますか。
 人によっては、転勤で遠方から駆けつける方もいらっしゃいます。
 先日、大阪の会社の方から、ご質問のメールを頂きました。
 大阪では亡くなられた次の日が通夜、その翌日が葬儀・告別式というのが一般的ですが、首都圏の事業所からこちらでは斎場の予約が取れず3~4日待つのが当たり前になってきているとの意見が寄せられています。現状はどんなものだろうか。従来の忌引休暇を状況によっては変えていく必要に迫られると思いますのでということでした。
 首都圏のサラリーマンにとっては、仕事との兼ね合いをなんとかやりくりしながらの休暇申し出、ということになるのでしょうか。
 従来のように、会社の就業規則で忌引休暇は一律何日 というだけでは難しい状況になっているようです。
 嘗てのようにご自宅でご葬儀が執り行われた頃とは違い、殆どのご喪家が斎場で最後をお見送りするようになって、日にちが限定され、引き伸ばされ、自由が効きづらくなった分、忌引休暇も臨機応変に対応してほしいものです。
 冠婚葬祭による休暇は法律上の既定はなく、あくまで会社の就業規則の範ちゅうですので、皆さんで声を大にして、特別休暇を申請しましょう。

 

「心のケア」がこれからのご葬儀の鍵になる・・・。

 ご葬儀の立会いでお伺いする時、思わず丹田に力が入り、両足を踏ん張る場面があります。
 告別式の後、最後のお別れのお花入れの儀でお花を手向け棺の蓋を閉めるまでの数分間は、後方にお邪魔していても足が立ちすくんだようになってしまうことが度々です。
 故人とご遺族の絆の強さに圧迫され、時として息苦しさを感じることもあるくらいです。
 永遠の別れは分っていてもいざその時が今であることを許せない気持ちが交差しているように思われ、ご遺族が最後に棺の窓を閉めるかすかな音にいたたまれず逃げ出したいような気持ちにさせられることもしばしばです。
 
 しかし、部外者があれこれ想像してもこればかりは当事者でないと本当の悲しみは分りません。
 この悲しみもいずれ時が解決してくれるからと言われてきましたが、最近は身の回りが落ち着いて来れば来るほど取り残されたように心の澱となって残り、心の問題から身体の変調を来たす方が増えているとも伺います。
 そんな中、1人で抱え込み途方にくれる方に少しでも手を差し延べられるようにと心のケアをアドバイスするところも出てきています。
 より核家族化していくこれからのご葬儀は単に儀式だけではなく、時として心のケアを含めたアドバイスも重要な要素として挙げられて来るのではないかと思われますが・・・。
 

  

団塊世代が考えるお葬式とは・・・・。

 先日、ある新聞社の記者の方からご葬儀のことでお電話を頂きました。
 中で「特に中高年からの相談でどんなことに関心が高いのか知りたい」との質問がありました。
 
 実際、電話口やメールで頂く問い合わせは老若男女様々です。
 少し前までは若い方の方がご葬儀に関する話題の抵抗は低いように思われましたが、中高年と言われて改めて見渡すと、最近、年齢別のタブーはあまり感じられなくなってきています。
 特にここ1~2年の傾向は顕著のようです。
 マスコミに取り上げられる機会が増えたこともありますが、なんと言ってもインターネットの普及が第1に挙げられると思います。
 永年タブー視されていたこと、聞きづらかったことがおおやけにされ、年齢を問わずアクセスできる強みが大いに発揮された分野の一つではないでしょうか。
 定年を迎えた団塊世代が自身のこれからの生き方を問う問題と、親御さんを見送る問題がクロスし、クローズアップされてきています。
 重い家制度ではなく、家族単位の生き方が定着してきた最初の世代でもある団塊世代が、ご両親の見送り方を自身の生き方として捉え、周りに気兼ねすることなくご家族・ご親族のごく親しい方々中心に実行される方が増えてきています。
 この傾向はさらに拍車がかかることでしょう。
 会社という枠の中から個人に戻り、これから自身のしたいことを中心に活動したいと模索している団塊世代の発言はどの業界も目が離せないようです。
 
 

 

「供花はどうしても必要なものですか?」

 「供花はどうしてもあげなくてはいけないものなのですか」
 葬儀社から取り寄せた概算見積書をお送りした後、依頼者の方との電話口でのやりとりです。
「あくまで故人様に対するお気持ちですので、強制ではありません」唐突な質問に言葉を詰まらせ、そんなお答えをした覚えがあります。
 仕事で半ば慣例化されたようになってしまった事柄も、一つ一つ問い詰めていくと、現在では必要のないものも出てくるかもしれません。
それぞれのご家庭により、またその方によりご葬儀の基準も多種多様になって来つつあります。
 でも、お気持ちだけはできるだけ残したいものです。合理的にどんどん削っていけば、お花なんて必要ないかもしれません。
 葬儀社の担当者に伺うと、「ある本にこんな一文がありましたよ」と知らせてくれました。

 「慈愛、忍辱(にんにく)の徳を表わし花を捧げることにより、清らかなやさしい気持ちで仏様を拝み、自身が慈悲の心を持ち続けたいと願うもの・・・」
 
 仏教の修行で個人だけでなく、他人をも悟らせる教えの六波羅蜜に「忍辱行」というのがあり、「忍辱」とは耐え忍びこらえる事だが、耐えることでポジティブに自分を育てることになるとのことです。
 お花を捧げることで自身もその心を持ち続けたいということであれば、どんな形であれ、あげる、あげないの問題ではないように思われますが・・・。